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場末の牛丼屋、死んだ時代を憶う


昼夜逆転を矯正しようとして、夕方過ぎに寝て深夜に起きる生活になぜかなってしまった。
朝方には腹が減り始める。近所のチェーン牛丼屋によく行く。24時間やっていてありがたい。

場末の小さな飲み屋街がそばにあるから、店を閉めてから来たのであろう客を時々見かける。この辺りだと、朝までやっている飯屋は他にない。
俺も少しだけ、場末の飲み屋をやったことがあるから、朝方の牛丼屋で飯を食う住人たちの空気には、親しみを覚える。
ただ、俺が飲み屋をやった大阪の場末が、地元のボンクラの吹き溜まりだったのに比べると、やっぱりここは場末と言えど東京で、みんな流れ者の匂いがする。

これは大阪でも東京でも変わらないが、場末の歓楽街には、一昔前のニコ生配信者のような見た目の連中が多い。「チャラさ」みたいなものを、野暮ったく真似するとそうなるのだろう。
なんだか懐かしくて、嬉しくなる。終わってしまった時代を追憶することの快さだ。時代でも人でもなんでもそうだが、死んだものは、静かで良い。
2000年代半ばから2010年代初頭辺りまでの若者たちが好きだ。当時小学生だった俺が仰ぎ見たお兄さんお姉さんたちの雰囲気。良くならない世の中を、のらりくらり生きようとする、彼らのダウナーな暢気さが眩しく見えた。
長い髪の右半分を緑色に染め、いつもニーハイを履き、baseよしもとに足繁く通い追っかけをしていた友達のお姉ちゃん。
ヘアアイロンを貰いに行った先輩の部屋の、壁にかかったキャバクラで着るらしいコスプレ衣装と、レゲエが流れる青く光ったスピーカーと、脱法ハーブの匂い。

みんな背を曲げて、静かに飯を食う店内に、女が転がり込むようにして入ってくる。安っぽいドレスから伸びる白い脚が、爪先まで真っ白に染まっているのを見た。美しく思う。微かに震える手で、彼女は牛丼をかき込む。
俺はあんまり牛丼は食べない。
朝だからか無性に納豆を食べたくなることが多くて、定食を注文する。
食べる前はあんなに欲していたのに、食べた後は美味しかったかどうかいまいち覚えてない。チェーン牛丼みたいな飯の美味しさは後を引かない。ありがたいことだ。
タッチパネルで注文して、無愛想な店員が運んできたものを黙々と食し、味を忘れる。シンプルな生活の一場面。単純さはいつも清潔だ。清潔でいるのは好ましいことだ。
飯を食いながら、Galileo Galileiの青い栞をよく聞いている。
「くちびるでほどいたミサンガ」という歌詞のあまりの美しさに、未だ慣れない。


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