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古めかしい市役所


野暮用で岸和田市役所に行ったら、とても古めかしい立派な建物で心躍った。役所に行く時なんて大抵うんざりした気分なのだし、建物ぐらい魅力的であってほしいものだ。

入口の円柱にかかっている照明なんてとても素敵だ。デカデカと駐輪禁止の貼り紙がしてあるところに、堂々と自転車が鎮座しているのも好ましい。

中に入ってみると、これぞ戦後モダニズムという趣の素晴らしい空間で、小津安二郎の作品世界にでも迷い込んだかのようだった。
設計者は今ちょっと調べてみてもわからない。築60年ほど経っているらしく、新庁舎建設計画を巡って色々トラブルがあったようで、そのニュース記事ばかり出てくる。
苦し紛れにグーグルの口コミをざっと見ても設計者の情報は見当たらない。というか、市役所のグーグル口コミ欄にクレームを投稿する人とか存在するんだな。してほしくなかった。
欲しい知識を見つけられず、いらない知識を得てしまった。

番号札を取って、待ち時間に読もうとポケットに忍ばせていた、須賀敦子『ヴェネツィアの宿』を開く。流麗な文体で綴られる異国の風景が、ざわざわとした声を包み込む荘重な空間の気品と溶け合う。うれしい偶然。
しばらく読んでいたら、不意に小さな双子の女の子が視界に入り、ページを捲る手を止めた。かわいらしい子どもより面白い本なんてあんまりない。
おそろいの格好をしていた。茶毛でフードに耳までついた、クマみたいなパーカーを着ている。信じられないほど愛くるしい。抱いているあざらしのぬいぐるみも一つずつ。背丈ほどあるそれを必死で抱きしめている様子が、体の小ささを際立たせる。
取り合う人形を床に落とし、そばにいた若い女の子に拾ってもらってから、二人して時々彼女をちらと見る。彼女が微笑んで手を振ると、プイと顔を背ける。照れ屋なのだろう。
はしゃぎすぎて、ちゃんと座りなさいとお母さんに頭をパチンと叩かれると、はにかむように笑いながら、また彼女のほうをちらと見た。

かわいい双子も彼女らのささやかな友人もどこかへ姿を消した頃、俺の番号が呼ばれた。
窓口につく。応対してくれた職員さんは、ほっそりした中年の女性。ここに記入してください、と書類の一部を指す、その白い手を包む糊のきいた袖口が目についた。
淡いベージュの生地に、灰がかった青の細いストライプがのびている。その両隣を、若草色のストライプがさらに幽けく走っている。袖口を留めるボタンは生地より少し明るいベージュで、糸のほつれもない。
シャツを肩へ辿るように顔を上げて、体を包む紺色のチョッキを眺める。胴の部分が透かし編みになっていて、トライバル風の模様があしらわれている。左肩にだけ、やや大ぶりの金色のボタンが三つ、光を受けて鈍くきらめく。
抑制の効いた、それでいてどこか温かみのある装いで、いかにもここで働いていてほしい人だなと思った。古風に華やかな庁舎の佇まいと、よく似合っている。
この建物の中で見るからそんなふうに思うのか、と彼女の背後で仕事をしている人たちに目をやる。なるほどデスクについている数人の職員さん、どの姿も美しい。建物がそう見せるのか、あるいは、毎日通っているうちに、誰もがその美に染まるのか。
……と、そんなことばかり考えていて彼女の話をまるで聞いておらず、申し訳ないことにもう一度繰り返してもらった。謝りながら、言われた通りに記入する。そして、手渡されたボールペンの書き心地がとても良くて、今度はボールペンを眺めて上の空に。全くどうしようもない愚図っぷりである。
また迷惑をかけてもいけないのでボールペンはあまりきちんと見れなかったが、特段珍しいものではなさそうだった。なんの変哲もない、どこかで見たことある気さえするものだ。コンビニにでも売っているかもしれない。
先日、知人から手紙が届いた。はじめに送ったのは俺なのだが、こちらから書いて寄越すのと、返事を書くのでは難しさが違い困っている。こちらからは書きたいことを書けば良い。返事は相手の話に応えないといけない。
しっくりくるボールペンを知って、面倒がっている手紙をようやく書けそうな気がしている。



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