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祈りの値付け


蚤の市へ。とある神社の境内で、毎月開かれている催し。
終了時間ギリギリに訪れたものだから、もうほとんどの店が撤去した後だった。まだ残ってるところも片付けを始めている。人もまばらな参道を吹く寒風に小石が転がる。
午前中の雨でぬかるんだ土の上を、微かに波立つ水溜りを避けながら、残っている店から店へと歩き回った。今まさに片付けられようとしている品物たちを、曇り空から差す柔らかい残照が包んでいた。

ある店の親爺が、出遅れた物色者の俺を目敏く見つけて、そばに寄ってきた。今日は全然売れませんでしたわ、昨日から雨の予報やったのがあかんかったんでしょうね、と人懐っこく話す。
適当に返事しながら品を見る。取り立てて惹かれるものはない。そもそも、この市には昔から何度か訪れているけれど、いつも大したものと出会わない。ガラクタの類しか転がっていない。それでも飽かず訪れてきたのは、昔は近くに住んでいたこともあり、またその味気なさに妙に心が和らぐこともあり……。
タイルや盃が一緒くたに放り込まれた木箱を漁っていると、いかにも拙い、ひとつの人形が目に留まった。子どもが作ったのかも、と思わせるほどの造形である。
拾い上げて見つめていると、親爺が、それは衒いがなくていいでしょう、と言った。
衒いがない、というのは凡庸な褒め言葉で、この人形にその表現はしっくりこない、と思った。
衒いのない、素直とか純粋といったような価値は、工夫を重ねた果ての無作為に宿る美だろう。俺の目に留まった人形はそういう輝きとは無縁で、衒いがないのではなく、あらゆる衒いが失敗していた。そして、見るべきところのない寒々しいその姿が、かえって見尽くせぬほど深い不毛さを感じさせるのだった。知識も美学もなく無軌道にガラクタを買い漁る我が身の不毛さで、親しんだのかもしれない。
底を返してみると、500円という値札が付いている。迷うに及ばないので気安く買った。新聞紙に包もうとするのを、そのままでいいと止めて、ジャンパーのポケットに入れた。

そうこうしているうちに他所はすっかり店仕舞いを終えてしまったので、そそくさと退散した。
車を停めている駐車場への道、何度もポケットから人形を取り出し眺める。
そのなんとも言えぬ愛らしさもさることながら、この物に、いや言ってしまえば「こんな物」に値が付く、という不思議にとらわれた。
不思議というのも変な話だ。値を付けたのは、その値に納得して買った俺でもあるのだから。値は売り手と買い手の共犯で付くものだろう。しかし、不思議でならない。
値付けという営みの、いささか後ろめたい悦び。もしかして、と思い巡った。俺はその悦びに憑かれてきただけではないのか、と。世に骨董とか古道具とかガラクタなどと呼ばれるさまざまな物たちを、貧しい懐をひっくり返して買い漁ってきた本当の理由。それは、固有の物が放つ美しさに魅入られたのではなく、美的感動と所有欲と価格が渾然一体となったわけのわからぬ遊びに、誘惑されてきたに過ぎないのかもしれない。
来歴、形、なんでもいいが、物に紐付いたあらゆる価値が、金銭という至って平板な数値に置き換えられてしまう、なんとも残酷で、神々しいほど艶かしい事態……。

金銭にまつわる雑感と、神社という場所からの連想も手伝って、何年も前の、正月の朝を思い出した。それは俺が生まれて初めて金銭を美しいと思った日だった。
蚤の市があるのとはまた別の、とある有名な神社でのことだった。
境内は参拝客でごった返し、外まで長蛇の列が続いていた。その頃の俺は全然金がなく(いつもだが)、屋台から漂う魅力的な香りを嗅ぐことすら辛かったのを覚えている。なんでそんな状態で初詣なんて行ったのかはよく思い出せないが、おおかた神にでも縋りたかったのだろう。

しばらく並んで、ようやく境内へ足を踏み入れた。
その時、夥しい数の頭が並ぶさき、遠い拝殿に、舞い踊る巫女の清廉な姿を目の当たりにしたのだった。
胸をつかれた。
神に奉納する舞踊、か何かなのだろう。拝殿の前の賽銭箱へ、列の先頭に着くのを待ちきれないで遠くから投げられた小銭が飛び交う。それらがきらきら光るなかで、巫女の纏う赤と白の衣はひときわ明るかった。
巫女は、神のようにも、娼婦のようにも見えた。
それはあらゆる祈りの器だ。神聖な空虚だ。
祈りは、金になり、神に届く。金も神も祈りを選別することはない。金に換わらぬ祈りはなく、神に届かぬ祈りはない。救いは遍く降りそそぐ。
巫女の舞と飛び交う金を目にしたあの瞬間から、俺にとって「金」と「神」とは、同じものを意味する言葉になった。




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