ヘビロテで嵐のカイトを聞いている

ヘビロテで嵐のカイトを聞いている

自分には付き合い始めて三年になる相方がいてくれてるんですが、この相方、ジャニーズの嵐の大ファンで音盤は(おそらく)制覇。コンサートを収録したDVDやブルーレイも、殆ど持ってるんじゃなかろうかと思っております。
で、このところ、NHK2020ソングとして東京オリンピックパラリンピックのテーマソングとして使われるはずだった、嵐の「カイト」という曲が、相方の家に邪魔する度に、それこそ延々と流れていたりするわけです。
ここ数年、もちろん一緒にいるときや音源からかなりの曲数は聞かせてもらってるんですが、一曲をこれほど聞き込んだのは自分としても初めてじゃないかな? と思うほどの量で聞いてきてます。

相方からの影響でこれまでの嵐の曲を聞いてきての自分の感想は

●本人達の声が乗ったのを聞いてると、どの曲も初めてでもとても歌いやすい
●でも声のリードが無くなると途端に難しくなり、カラオケで歌おうとすると戸惑う
●「嵐」というグループ名に繋がる単語がアルバムの曲の中に見え隠れする
●昔出した曲でも大切にされている

などといった感じで、さすがトップアイドルは違うなあと思っておりました。
そんなこんなで、今回の「カイト」を何十回も聞いていて、色々思ったことを書き連ねてみたいと思った次第。

ちなみに自分は小中高&社会人で少し合唱やってきたけども、楽譜読めない音感無いリズム感無いの三無い揃った歌好きのおじさんです。
山口百恵さんの引退で歌謡曲への興味なくなってはしまったので、ここ四十年以上の音楽シーン、全然分かってません。
テレビもほとんど見ない人なので、作詞作曲の米津玄師さんという人も、名前や曲は耳にしてますが、たぶん画面に映っても誰だか分からないほどの「疎い」レベルです。


●曲の構成について

初めてこの「カイト」って曲聞いたときは「とにかくリズムが難しい」と思いましたねー。
音の流れそのものは割とスムーズで、意表を突かれる音飛びがあるようには感じなかったんですが、とにかく拍子の頭に言葉が来ず、サビの部分など何拍子か分からなくなるほど。

全体の構成としては、

ABサビ
ABサビ
C(大サビ?)
サビ
サビの最後をリフレイン

って感じで、歌謡曲やポップスだと割とよくある感じだと思います。


●リズムについて

最初に聞いたときは八拍子かい?と思いました。
サビの部分に代表されるアウフタクトに引っ張られてしまってそう聞こえたようで、四拍子を実はきちんと刻んでるようです。

拍の頭と言葉のアクセントがズレながら表と裏を行ったりきたりするので、なんだかつんのめりそうになるというか、スキップが上手く出来ない感じというか、そういうモヤモヤ感、バタバタ感が自分で歌おうとすると強く感じます。
ところがこれが、嵐のメンバーが歌うと見事に楽曲として流れていくのは、プロの歌い手さんの実力というものだなと感心してしまうところです。


●歌う際の音(おん)について

全体として昔の唱歌のように楽譜の拍で表される音(おと)と、日本語の発声単位である音(おん)とが一致せず、自分よりかなり上の年代の人に取ってはある種の「せわしなさ」を感じる曲調ではないかと。
さらに強拍と日本語としてのアクセントが意図的にずらされ、あるいは一つの文節内の言葉すら切り離されるという作曲上の技法は、わざと違和感を感じさせる=印象的なフレーズとして認識させることに成功しているようです。

このあたりは作詞作曲をされている米津玄師さんの面目躍如といったところでしょうし、今時の流行り歌としては程度の差こそあれ、ある意味必須になってきているテクニックなのかとも思いました。

その中で、実際に音源に合わせて歌ってみるとフレーズ終わりの音(おん)の選択に、とても気を使って詩と曲をすり合わせておられることが分かってきます。

一番は全体的にフレーズ終わりに「カイト」の音列「あ、い、お」と同じ音列の言葉を持ってくることで韻を踏み、同時に、作為的な言葉の構成が聞く側歌う側に意識されていきます。
とりわけ一番のB部分、「と」音にて幾つかのフレーズを終わることで、繰り返しに聞こえるリズム構成が意識に刷り込まれていくのではないのかと。

サビの部分では最初の言葉としての固まり=フレーズは「ば」という「あ音」で終わるものの、その後は「る」「う」「て」「を」「う」「す」と、「う音」が多く、少し欲求不満というか、変則的なリズムと相まって、どこか詰まった感じがするのでは無いでしょうか。
それが最後の最後に「ら」を持ってくることで、開放感を存分に味わえるという、実に見事な展開になっているように思えました。

このあたりは実際に歌ってみると強く感じることが出来るのでは無いかと思っております。


●歌詞について

曲名にもなっている「カイト」。
詩中の「羽」という表現もあり、いわゆる日本的な四角や六角形でしっぽが付いてたりする、「和凧」の感じではどうやら無さそうです。
自分が小学生の頃に販売された、アメリカの「ゲイラカイト(商品名で申し訳ないですが)」のような、二等辺三角形の形をした洋凧のイメージですね。

その「カイト」、その大きさについて詩中の語り手(ここでは「主体者」としておきます)との、相対的に認知された感覚を言葉として表すことで、主体者の成長を表しているように思えます。

最初、高く飛んでいた「カイト」はおそらく幼少であった主体者に取っては「大きく」見えていました。
同時にその羽が風を捕らえて強く引く力は、そのときの主体者に取っては手元の糸を「ぎゅっと」強く握っておかないと、どこかに飛んで行ってしまうのでは無いかと思えるほどに、力強いものだったのかと。

そんな小さくて弱かった主体者に取って、一番身近にいたであろう母親や父親から、おそらくは愛情の発露としてのメッセージを「言われる」ことが自らの成長の糧となる。
そして自分の未来、行く末に「一番星の側」にあるほどの高い「夢」を追っていく。
ただその「夢」へ続く「未来」への道は、決して誰もが認識出来ていて白日の下に晒されている部分だけでなく、主体者にしか分かり得ない、かなりパーソナルな部分をも内包している。
その実現の過程において母からは「泣かないで」と、父からは「逃げていい」とまで言われるほどに。

やがて得る「友」や「あなた」は、親との年齢の上下ある関係とは違い、「忘れない」でいてくれたり「愛して」くれる、対等な存在として主体者の人生に関わってくる。
そしてそれゆえに守るべき対象として見てくれていた親との関係と違う関係を切り結ばざるを得ない主体者は、その心に「傷」を抱えながらも「小さな頃」に自分が握っていた「カイト」の糸を決して離すことは無い。

そのような経験を繰り返して行きながら、かつて「大きな羽」を持っていたと感じていた「カイト」が「小さく」見えるほどに主体者は成長し、思い出は古く遠いものとなってしまう。

それでも、人生の中の「嵐」や「悲しみ」があっても、決して離さなかった「カイト」の糸は、「夢」をあきらめず、自ら叶えるための「先」へと「繋がって」いるから。


最初に聞いたときには、サビの部分で歌われる「君」は歌詞中の「友」や「あなた」のことかと思いました。
A、B、C(大サビ)の部分の視点は主体者によるものであり、当然サビ部分も主体者の呟きでは無いかと考えていたからです。
それが何回も、何十回も聞いているうちに、このサビの部分だけ視点は第三者的に空に浮いているのではなかろうか? との思いになりました。
もちろん自分の勝手な解釈ではあるんですが、サビ部分での「君」は、主体者そのものを指しておるのではなかろうかと。

C部分で歌われる「帰ろう」とは、誰が(あるいは何が)、どこに帰ろうというのか。
これについては夢の先にある「カイト」が主体者の手元に戻っていくこと、また、一つの夢にたどり着いた主体者がさらに先をゆく「カイト」に向かっていくこと、その双方の意味があるのでは無いかと解釈しています。


●合唱曲にならんかいな

もともとタイアップ曲として考えられていたわけですし、「聞くだけ」の曲ではなく、大勢に「歌ってほしい」曲だったのではとも思ったり。
そうなると、合唱曲になって楽譜が広がり、たくさんの人に歌われるのもいいんじゃないかなあ・・・。
人気の米津玄師さんの作詞作曲でもありますし、若い方達にもウケると思います。
合唱譜面にする場合は是非とも嵐が歌った編曲そのままのリズムでお願いしたく。

NHKさんでも日本合唱連盟さんでも、どちらでもいいのでコンクールの課題曲に取り上げてくれないかしらん、と昔やってたおじさんは思うことしきりなのですよ。


●最後に

この間、何十回も聞いて歌詞を確認していく中で、はてこれは?と思ったことがありました。

この歌の歌詞中には、これまでの嵐の楽曲の中でしばしば見受けられた「僕ら」に代表されるような「一人称」の表記はありません。
この文章中で、歌い手に置き換えられうるであろう歌詞の語り手を「主人公」や「私」「僕」あるいは嵐というグループやメンバーとせず、少し違和感のありそうな「主体者」と表記したのもそのためです。

そこにはもしかして、作詞作曲をされた米津玄師さんから、活動休止という大きな節目を迎える5人のメンバーに対しての「自分達のこれからを、自分達の内部からだけではなく、ほんの少しでいいので、これまでよりも少しだけ広い目で、少しだけ大きな目で、あるいは少しだけ高いところからの目で、見てみよう、見つめてみよう」というメッセージが込められているのではなかろうかと、勝手に解釈しています。

自分のような凡人から見た嵐のグループとしての存在は「一番星の側」に、もうすでに到達しているように思えてしまいます。
もちろん5人の思いとしては、その歩む道は曲中の「カイト」の「糸」ように、もっと遠く、もっと強く続いているのでしょうけど。


十代のときから人が成人するほどまでの年月を駆けて来られ、果たして嵐のメンバー達が「夢」としていた場所に到達しえたのか、はたまたまだ道半ばなのかは自分には分かりません。

それでも、5人がこれから先のさらなる「夢」を追い求めて行かれるであろうことを、50代半ばとなったおじさんは、確信しています。







素晴らしいグループの存在を教えてくれた相方に感謝を。

2020年8月3日
ある記念日に

三太