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越前朝倉氏の黒歴史(3)(『麒麟がくる』解体新書)

西暦1486年(文明十八年)7月4日、越前朝倉氏八代当主・朝倉氏景は三十八歳で死去し、嫡男・貞景が越前朝倉氏九代当主となりました。御年十三歳でした。なお、朝倉氏四代目にも貞景の名前がありますが、もちろん別人です。

斯波義寛のインネン

貞景が越前朝倉氏の家督を相続した翌年の西暦1487年(長享元年)9月12日、足利幕府九代将軍・足利義尚は、近江守護・六角行高が不当に寺社や公家の荘園(私領)を横領しているという訴えを受け、幕府の威信をかけて六角征伐に出陣しました。

これには全国の諸大名に上洛・出陣が命じられていましたが、貞景は大叔父(祖父・孝景の弟)にあたる朝倉景冬を名代に1,500の兵を与えて派遣しました。将軍家の出馬要請に当主自らで出陣するのではなく、名代を遣わすことで「義理は果たした」というスタンスを取ったのです。

ただ、貞景が将軍家と距離を置いた理由はありました。それは今回の六角討伐の主力の勢力が、父・氏景に敗れて尾張(愛知県西部)に引き篭もった元主君・斯波義寛だったのです。

そんな判断が14歳の貞景にできるはずもなく、朝倉家家中の者たちの計らいだとは思いますが、その懸念は見事に的中します。坂本に着陣した当主名代・景冬に対し、斯波義寛は「自分の家臣と陣を同じにして戦うことは承服しかねる」とヘソを曲げ始め、ついては合戦の場であるのに「幕府は朝倉氏の越前支配を公式に認めるのか否か」という問題提起を行いました(今で言うKYですね)

将軍・義尚からすれば

「合戦の前にいったい何言い出すのよ、こやつは」

という感情はあったと思いますが、越前は朝倉氏に実効支配されていたとはいえ、守護職に補任されていたのは義寛ですので、言い分としては一応筋が通っていました。そのため、無下にもできず、この裁定は1492年の第二次六角征伐後まで持ち越されることになります。

結論から言えば、この時、朝倉氏の越前実効支配は幕府からは認められました。同時に斯波氏の被官ではなく、将軍家の直臣として認められているようです。

京都相国寺鹿苑院の蔭涼軒主の日記『蔭涼軒日録』には同年4月10日の項目に、尾張守護代・織田敏定(尾張国下四郡守護代)の言葉として

「朝倉は斯波家の累代の被官(家臣)である。それが館や国を横領し、今や将軍家の直臣となった。これで憤らない訳が無い」

とさぞやご立腹のご様子が記されているので、この時点で朝倉氏は越前の法的な実効支配支配と将軍家直臣の地位を獲得しているのは確実と思われます。また、貞景の子・孝景の代には将軍家の「御供衆」に任じられていますので、まず間違い無いですね。

明応の政変

西暦1493年(明応二年)4月、足利幕府管領・細川政元が、足利幕府十代将軍将軍・義材を廃し、足利義遐(よしとお)を十一代将軍に据えるというクーデターが勃発します。世にいう「明応の政変」です。

この政変は将軍義材が自らリーダーシップを取って政治をやり始めたことに、管領・細川政元足利幕府政所執事・伊勢貞宗そして足利幕府八代将軍・義政夫人であった日野富子らが不満を抱き、義材が河内征伐(畠山氏の家督相続問題解決のための武力行使)に出兵したスキをついて行われました。

今の言葉で言えば明らかなる「国家転覆」です。

義材は先の第二次六角征伐を成功させ、今回、河内征伐で畠山の家督相続問題を解決した後は、越前征伐を視野に入れていたと言われます。もちろん、その御膳立ては斯波義寛が暗躍していました。相当にしつこい人ですね。

しかし、将軍権力による「征伐」という軍事行動にかかる諸費用は全て諸大名持ちです。つまり手弁当で参加することになります。一度ならともかく、二度も三度もやられては、大名側のフトコロが持ちません。

そして、実際に将軍権力を以て越前征伐をやられたら、朝倉氏はひとたまりもありませんでした。

それもあってか、当主・貞景はこの政変に政元側(クーデター側)についています。

追放された義材は、同年6月に越中(富山県)に入ると、5年後の西暦1498年(明応七年)9月には、名を義伊(よしただ)と変え、貞景を頼って越前に入りました。越前に来た目的は、貞景に対し、上洛して将軍に復位するのに力を貸してほしいと説得しにきたのです。

しかし、貞景は将軍の日々の暮らしに事欠かないように援助はするものの、上洛戦に関しては決して首を縦に振りませんでした。やがて義伊は、越前を出て、周防(山口県)大内氏を頼ることになります。

この時、貞景はまだ25歳、若年であることで家臣の中でも不穏な動きが見受けられ、まだ国内の地盤固めが盤石でないため、上洛という領国を留守にする行為はリスクが高いと判断したのではないかと思われます。

朝倉景隆の謀反

西暦1503年(文亀三年)、貞景の危惧していた通り、朝倉家中で謀反が発生します。

貞景の祖父・越前朝倉氏七代当主・朝倉孝景の四男に、朝倉元景という人がいました。彼は異母弟・教景を殺害し、越前国を出奔。この頃は足利幕府管領・細川政元に仕えていました。

元景は、従兄弟であり、娘婿でもあった敦賀郡司職を務めていた朝倉景隆に着目し、景隆の姉妹が朝倉家中の主だった武将に嫁いでいることを利用して、義兄弟の力を結集して朝倉宗家に謀反を起こすように仕向けました。

元景は近江(滋賀県)で兵を集めて挙兵し、越前にむけて進軍しました。これに呼応して景隆も越前国内で挙兵します。

ところが、景隆の義兄弟は誰一人行動を共にしませんでした。それどころか、元景の弟である朝倉教景(前述の教景とは別人/後の宗滴)が出家した上で、「謀反の企てがあります」と貞景に御注進したため、貞景が出陣し、景隆の居城・敦賀城を包囲、援軍の元景の軍勢は間に合わず、景隆は自害して果てました。

元景の軍勢は景隆の自害を知ると、加賀に転身して勢力を立て直し、翌年1504年(永正元年)、加賀一向一揆の勢力と結託して再度越後に攻め込みました。しかし貞景はこれを見事に迎撃し、貞景の武名を家中に響かせました。

貞景は、謀反の計画を教えてくれた宗滴を後任の敦賀郡司に任じて、金ヶ崎城(福井県敦賀市金ヶ崎町)を与えました。これ以後、宗滴は朝倉一門の中でも重きを担うようになり、軍奉行(軍事統括官)を務めるようになります。

一向宗との戦いと越前の平和

西暦1506年(永正三年)7月、加賀一向一揆の勢力は、能登、越中の門徒を加え、数十万の兵を率いて越前に侵攻してしてきました。貞景は宗滴に約20,000の兵を与えて迎撃命令を出し、宗滴は九頭竜川付近で一向宗門徒と対峙します。

宗滴は夜襲をかけて一向一揆の士気を低下させると、彼らを加賀に追い返すことに成功しました。そして、二度と越前に攻め込んでこないように、北陸の一向宗の本部機能をもつ吉崎御坊を破壊し、廃坊に追い込んでいます(これ以後、加賀の一向一揆は徐々にその勢力を低下させます)。

この戦いを最後に、越前はしばらくの間、戦のない平和な時代が続きます。

西暦1512年(永正九年)3月25日、貞景は鷹狩りの途中で四十歳で急死し、後を継いだ嫡男・孝景(7代当主と同じ諱)が十九歳で越前朝倉氏十代当主となります。これが「麒麟がくる」に出てくる朝倉義景の父になります。

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