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法住寺合戦は「全部後白河のせい」

みなさま、お待たせしました。NHK大河ドラマ「『鎌倉殿の13人』の捌き方」ようやく執筆再開です。

実は4月29日(金)から、世界的な超有名な「流行り病」にかかってしまいまして、5月10日まで自宅軟禁の憂き目にあっておりました。

このコラムも2週お休みしてしまいましたが、まともに追っかけてると追いつけないので、ポイント的に振り返ってドラマの補足説明をしていこうと思います。

まずは、病気になる前に書きたくてもかけなかった法住寺合戦についてです。

法住寺合戦とは

法住寺合戦とは、西暦1184年(寿永二年)11月19日、木曾義仲(演:青木崇高)が後白河院の院庁である法住寺を襲撃して、後白河法皇(演:西田敏行)と時の天皇である後鳥羽天皇(演:尾上遼)を幽閉した軍事クーデターです。

大河ドラマ本編では第19話「足固めの儀式」のOP前の段階で少しだけ触れられています。

今井兼平「鎌倉勢が迫っております。総大将が源九郎義経!」
木曾義仲「チッ……九郎か……」
巴御前「鎌倉勢を京へ入れてはなりません!」
義仲「……院の御所に兵を送り、法皇様を捕らえ奉る!」
義仲郎党「ははっ!」
義仲「法皇様の身がこちらにある限り、向こうも手出しはできまい」

『鎌倉殿の13人』第19話「足固めの儀式」00:30頃から

この後、法住寺が襲撃され、平知康(演:矢柴俊博)が法皇に「お逃げください」というシーンだけがあります。

つまり、この演出では、義仲は鎌倉軍が迫る中、法皇様を人質にして戦いを有利に進めようとしていたとしか見えないわけです。

しかし、これは大きな誤解です。
この法住寺合戦は、義仲が法住寺を襲撃した事実は間違いありませんが、そこに至るまでの経緯(すなわち原因)は、後白河法皇の天狗っぷりがもたらした結果であると考えています。

皇位継承問題

以前のエントリーでも書きましたが、安徳天皇三種の神器が平家の都落ちに従ったため、朝廷では天皇の不在の状態をどうするのかが問題になっていました。

ここで、義仲は、自分達の挙兵は以仁王の令旨によって行われているため、以仁王の皇子である北陸宮の即位を法皇に要求していました。

臣下の者が皇位の継承に口を挟むなど言語道断の時代です。

また、直系の皇位で考えれば、都落ちした安徳天皇の父である高倉上皇の親王が残っている以上、その親王が皇位の就くのが道理で、義仲の要求は道理に全く合っていませんでした。

この北陸宮の一件で、義仲は法皇、公家の評価が著しく下がることになります。

さらに義仲軍の入京によって京の食糧事情は逼迫し、さらに養和の飢饉の影響もまだ残っていたことから、義仲の軍勢の一部が暴徒と化していたのも正しいと思われます。

加えて、都落ちした平家の動向が公家界隈で噂話として持ち上がり始めていました。それによると、平家は西国の武士団の助力を得て勢力を回復し、再び京を攻める気配ありと言われていたのです。

この頃の京の世情はかなり混乱していて、上記の平家の再上京の話に加え、「鎌倉の頼朝が上洛する」「8月27日に頼朝の軍勢が鎌倉を発った」という噂話をまことしやかに囁かれていました。

同年9月4日付の『玉葉』(右大臣・九条兼実の日記)には、源雅頼(前中納言)が兼実を訪れてこんなことを言ったという記述があります。

「頼朝は必ず上洛します。頼朝のブレーンの一人である中原親能は元々私の家の者(家人)。彼は一昨日飛脚を送ってきました。10日あまりの後、必ず上洛すると言っています。頼朝の上洛の前に、まず親能が使者として法皇に申し上げることがあるようです」

『玉葉』寿永二年九月四日

雅頼の話が本当かどうかはともかくとして、一般市民レベルではなく公家、朝廷なども正しい情報をつかむのに必死の状態だったことはわかります。

法皇、策を弄す

同年9月21日、法皇はついに義仲を呼び出して、こう仰せになりました。

「お前はいったい何をやっているのか?市中は未だ沈静化せず、また平家の影に怯える公卿どもが右往左往。この状況をどう考えているのだ?」

これに対し、義仲は「明日、平家追討に向かいます」と答え、法皇はそれを殊勝であると評し、餞別に剣を与えたようです。

義仲が西国に出発した後、法皇は密かに動き始めます。
具体的には院の人間を鎌倉に送ったようです。

これは頼朝が東国を実効支配している現状を踏まえ、頼朝がどのような信条で実効支配(横領)をしているのかの考えを、法皇が問いただした使者であると見ています。

法皇の問いに対する頼朝の心情を綴った返書は『玉葉』によると以下の内容だったようです。

1、神社、仏閣を尊ぶこと
日本国は神国です。ですがここ数年の間、平家一門の輩は神社への寄進を行わず、また寺社への寄進を顧みることもありません。日本国を我が物とし、その罪により、平家は去る7月25日京都を出奔する事態となりました。これは神、仏が罰を与えたものであります。

此度の恩賞で頼朝が第一の功臣とのことですが、決して頼朝ごときの力ではありませぬ。ですので、まずは、平家追放の第一は、神社、仏閣に寄進等のお慈悲をお願い申し上げます。


2、宮様、公卿の領地、元のようにお返しなさること
院庁領、天皇領、公卿領の数々は平家一門が横領していました。対象の荘園領主は平家一門の態度に我慢がなりませんでした。平家一門がいなくなった今、早く院宣を持って、暗い世の中の空気を打ち払うべきでしょう。

もし頼朝が荘園領主の領地を奪って横領するようなことがあれば、それは平家と同じになってしまいます。世の人も源氏が平家に取って代わっただけと誤解されましょう。頼朝は御上の沙汰に従いますゆえ、何卒、道理にあったお裁きをお願いいたします。


3、罪人といえども軽く命を奪うことないように
平家の郎党で朝廷に降伏した者たちが、いかに罪があるとはいえども、命は助けるべきだと考えます。それはこの頼朝が勅勘(天皇の命令による勘当)を被る罪を得たといえども、今なお生きており、今、また平家という敵を討つべく努力しております。後々、こういうことは起きうるでしょう。

そのため、降伏してきたものを斬ってはなりません。ただし罪の軽重は吟味し、沙汰を行うべきだと存じます。

『玉葉』寿永二年十月三日

これに法皇と朝廷の公家たちは気を良くし、ますます義仲の評価が下がることになってしまいます。

法皇は頼朝に「上洛せよ」という使者を送りますが、頼朝は、

「今、上洛すれば常陸国(茨城県)の佐竹隆義・秀義らが鎌倉を伺う姿勢を崩していないため、鎌倉が手薄になります」
「鎌倉の手勢を引き連れて京に入れば、京の食糧事情が一気に逼迫させることになり、それは頼朝の望むところではありません」


と、もっともらしい理由をつけてこれをかわしています。
法皇は

「小倅が小賢しい真似をしよって……」

と不快に思いましたが、この後、次々と頼朝籠絡のための施策を投下します。

まず、10月9日に院除目(人事)が発表になり、頼朝は平治の乱で解かれた位階(従五位上)に復位しました。

これによって頼朝は謀反人(流人/朝敵)の身分から解かれ、中央貴族の一員として復活したのです。

さらに法皇はダメ押しとばかりに同月14日「東国および東海道における頼朝の行政権の執行を朝廷として承認する」という宣旨を下しました。

いわゆる「寿永二年十月宣旨」です。
これによって頼朝は東海道および東国の年貢徴収権および行政権を手に入れました。

これに激怒したのが義仲です。
西国に赴いて平家と戦っていた義仲は、京に目付として残していた樋口兼光から法皇の動きを知り

「あのお方は何を考えているのだ!!」

と激怒。平家との戦いでは多くの武将を失い、苦戦を強いられていたこともあり、同年閏10月15日、義仲軍は京に帰還しました。

また同じ頃、頼朝は東国、東海道の年貢および官物納入のため、頼朝の弟である源義経(演:菅田将暉)中原親能(演:川島潤哉)に兵を与えて、鎌倉を進発させていました。

決裂

京に戻った義仲を悩ませたのは、朝廷内部に出回っていた噂話です。

その最たるものが「義仲は御上(法皇)や主上(天皇)、公家を引き連れ、北国に向かうつもりである」というものでした。

これは樋口兼光の調査により、源行家(演:杉本哲太)が噂の出所であることがほぼ間違いないと言われています。この頃の行家は義仲を見限っており、法皇に取り入って義仲軍からは独立した勢力として行動しようと企んでいたようです。

義仲は同月17日に院に参り、

「平家に一旦勝ちを譲りましたが、その兵力や士気に恐るべきものはありません」

と報告をしました。その上で、今回京に戻ってきたのは

「頼朝の弟・九郎が数万の兵を率いて上洛すると聞き、京を守るために戻ってきたのです」

と述べました。

『玉葉』によると10月27日、源義兼という人間の発言として、法皇が源行家に平家追討の院宣を与えて西国への出兵を命じたとあります。

この時、すでに頼朝を討つために関東に出兵しようとする義仲と、平家を追討して三種の神器を取り返したい法皇との間は、完全に決裂状態になっていたと考えられます。

11月4日、義経の軍勢が不破関(岐阜県不破郡関ケ原町)に到着したことが院に報告されます。

これを聞いた法皇はついに「義仲排除」の動きを顕在化させます。

11月7日、法皇は源行家以下、義仲に味方していた源氏の諸将(近江源氏、美濃源氏)に院庁(法住寺)の警護を命じています。その命令は義仲には伝えられていませんでした。

翌8日、行家は平家追討の院宣を受けて西国に出兵しました。法皇は行家の抜けた穴を埋めるように、園城寺と延暦寺の大衆(僧兵)に院庁の警護を命じています。

義仲は関東出兵の準備を進め、法皇は法住寺の要塞化と警護を固めていく有様は、京の市中にあらぬ噂を撒き散らすという尾ヒレをつけていました。

11月17日の『玉葉』にはこうあります。

京の人がこう言っている。院の中で武士が集っている。京で騒動がおきる前触れだと。いったい何事をだろうかと。また別の人は言う。「義仲が院の御所を襲うのだ」と。いや「院より義仲が誅伐されるのだ」と、両方ともに虚言を用いている者がいるようだ。そいつらが大騒ぎしてる。犯人は誰だ。

『玉葉』寿永二年十一月十七日

この段階で近江源氏、摂津源氏等を完全に取り込んだ法皇は、同日、大江景宗という人間を義仲に遣わし、ついに最後通牒を突きつけます。

「平家討伐のため西国に向かえとこれまでなんども言ってきた。しかしながら、お前は我の許しもなしに勝手に京都に帰ってきて、その後、京都に留まり、西国に向かおうともしない。頼朝代官(義経)を討つために何度も院宣を求めているが、そんなに戦いたければお前の力だけでやれ。

しかし、それは院を軽視している証拠であり、我(法皇)に対する敵対行為とみなす他はない。お前の真意はどこにあるのか、もし我に逆らう気持ちがないのなら、早く西国に赴いて平家を討て」

『玉葉』寿永二年十一月十八日

これに対し、義仲は

「御上に謀反の気持ちなど毛頭ございませぬ。だからこそ私は京、そして院・朝廷のため、度々申し上げてきました。今、改めて御上より我が真意をお尋ねになられたこと、生涯の喜びでございます。

西国への下向、速やかに行いたいところではありますが、間も無く鎌倉殿代官の数万の軍勢が京都に入ります。その軍勢が京に入れば京を守護するのが私の役目。戦わざるえません。しかし、鎌倉殿の軍勢が京都に入らなければ速やかに西国へ向かいます」

『玉葉』寿永二年十一月十八日

これを受けた法皇は、

「もはや話し合う時期は過ぎたな」

と観念しました。
院における武力は近江源氏、摂津源氏、美濃源氏の源氏勢力、北面の武士、そして園城寺、延暦寺の大衆(僧兵)すべて併せて2万弱。

一方の義仲軍は上記の源氏勢力が抜け、行家の軍勢もなく、すでに1万を切っていました。

「鎌倉軍が京に到着する前に、義仲軍を殲滅できればもうけもの」

と法皇が考えるのもおかしくはありません。

開戦

法皇は11月17日と18日の両日に渡り、

八条院(暲子内親王/鳥羽法皇の孫/以仁王の猶母)
上西門院(統子内親王/後白河法皇の准母)
亮子内親王(後白河法皇の皇女/後鳥羽天皇の准母)

の3人を法住寺から退出させました。
それと入れ替わるように

後鳥羽天皇
守覚法親王(後白河法皇の皇子/真言宗仁和寺第6世門跡)
円恵法親王(後白河法皇の皇子/園城寺長吏)
明雲(天台座主)

上記4人が法住寺に入りました。
女人を法住寺から退出させ、天皇と自分の子供を法住寺に入れる。
これは法皇側が戦闘準備を始めたことに他なりません。

これを知った義仲は11月19日、自軍の兵を7つに分け、1隊を樋口兼光に預けて別働隊とし、義仲自身は6隊を七条河原に集結させると法住寺西口に向けて攻めかかりました。

法住寺西口を守るのは平知康(演:矢柴俊博)
知康は攻めかかる義仲軍に対し

「昔は法皇の宣旨を読み上げただけで枯れた草木も花が先、悪神も素直に従った。今が末法の世(末法思想/し釈迦入滅千年後に正しい教えが消滅するという思想)とはいえ、御上(法皇)に反することがどうして許されようか!お前たちの弓矢はお前たちに跳ね返るのだ!」

『平家物語』巻之第八「法住寺合戦」

と高らかに叫んだようですが、義仲軍の兵たちは

「アホな公家がなんか言ってるぞ」

としか思わず、攻撃の手が止むことがありませんでした。
さらに法住寺南門から義仲の別働隊である樋口兼光の一隊が攻めかかりました。

知康は西門の軍勢を南門にも割かねばならなくなり、その勢いに押され、ついに知康は戦線を離脱します。

勢いづいた義仲軍は法住寺南殿に火をかけ、法住寺を焼き討ちにしました。

この西と南からの攻撃に一番驚いたのは法皇でした。

法皇は法皇に味方する2万の軍勢で義仲の屋敷を襲撃する準備に着手したばかりでした。それは義仲の勢力をできる限り迎え討ち、戦いを長引かせ、その上で鎌倉の軍勢を京に迎え入れ、義仲の残存勢力を徹底的に壊滅させる作戦だったと思われます。

しかし、義仲は機先を制し、法住寺に先制攻撃を仕掛けてきました。
しかし、義仲に最後通牒を突きつけ、謀反を焚きつけたのは法皇なので自業自得であります。それでも法皇は本気で義仲が法住寺に攻めてくるとは思ってなかったのです。

この時の模様を『玉葉』は下記のように記録しています。

義仲、法住寺を襲撃しようと考えたようだ。基輔(藤原基輔/九条家の家司)を使わせて院に向かわせ、詳細を調べさせた。

午の刻(昼の12時前後)、基輔が帰ってきて言った「およそ院の中の武士は多くはなく、不安しかありませぬ」と。

(中略)

光長(九条光長/九条家の家司)がまたやって来た
「法皇に申し上げることがあったため退出しました。しかし義仲の軍兵、すでに三手に分かれて攻め寄せる噂があります。もちろん信用できるものではありませぬが、今となってはすでに事実です」と

ほどなくして黒煙が天に登った。これは河原の在家を焼き払ったもののようだ。申の刻(午後4時)となり、官軍(法皇)悉く敗北した。義仲は法皇を捕らえた。義仲軍の喜びは限りない。法皇は五條東洞院摂政亭に閉じ込められた。死傷の者、十余人と。

『玉葉』寿永二年十一月十九日

この兼実の記録から、法住寺合戦は昼の12時ぐらいに始まり、午後4時には終わったものと思われます。正味4時間の戦闘だったようです。

日本の歴史上、院政の御所である「院庁」が武士によって襲撃された例はありません。厳密に言えば、平治の乱で藤原信頼軍が三条殿を襲撃したことはありますが、あれは院近臣同士の戦闘に過ぎません。

今回のように明確に皇族(法皇)を攻撃目標にした反乱、かつ北面の武士など院庁を守るべき武士が壊滅状態まで追い込まれたのは、史上初めてのことでした。

戦後

11月21日、義仲は自分を裏切った源光長および近江源氏美濃源氏などの武将の首100余を五条河原に晒して自らの勝利を喧伝しました。

また、平家によって脇に追いやられていた摂関家傍流の松殿基房が義仲に近づき、娘を差し出したと言われますが、これは検証が必要です。

ただ、基房の嫡男・松殿師家が同月22日に内大臣に任ぜられており、なんらかの関連が想定されます。

師家は28日に摂関家の領地80ヶ所を義仲に宛てがう下文を発行しており、これを聞いた兼実は

狂乱の世だ

『玉葉』寿永二年十一月二十八日

と書き残しています。

さらに翌11月29日に平知康を含め43人が解官(クビ)されています。

法住寺合戦は後白河法皇にとって、平治の乱、治承三年の政変に続く三度目の院政停止でした。

義仲は摂関家傍流である松殿基房、師家と連携して京を手中に収め、さらに同年12月、法皇に頼朝追討の院宣を強要しています。

そして翌年1月、宇治川の戦いで範頼・義経軍と戦闘となり、義仲は敗北することになります。

義仲の政権はわずか2ヶ月足らずだったのです。

ドラマでは義仲が頼朝と戦う大義名分のため、法住寺を攻め、法皇を幽閉したかのように演出されましたが、実際は、法皇が義仲を見限り、密かに鎌倉に通じ、互いの不信を爆発させた結果生じたものだと考えています。

これだけはちゃんと書いておかねばならないと思って書きました。

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