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奥州合戦が果たした役割(新しい朝廷と鎌倉の関係はじまる)

今回は奥州合戦の総まとめになります。
頼朝が奥州合戦の準備から開戦、後始末までの朝廷の動きを追ってみます。

朝廷側が泰衡の死を認識したのはいつか?

これは10月10日付けの九条兼実の日記『玉葉』の記述がそうではないかと考えております。

夜になって能保卿(一条能保/頼朝の義弟=妹婿)から使いが来た。頼朝卿からの手紙によれば去る9月3日、泰衡(藤原泰衡)を討ち取ったと。これは世の中の慶事だ。

『玉葉』文治五年十月十日丙申

で、これを受けて10月18日に頭中将(蔵人頭兼左近衛中将)・藤原成経が兼実に相談しに行っています。

御使(院の使者)として頭の中将成経(藤原成経)がやってきた。奥州合戦による頼朝の恩賞のことだった。詳細な説明をしてかえった。夜になってまたきた。まず各卿に問うべきだと答えた。

『玉葉』文治五年十月十八日甲辰

10月20日、一条能保は兼実に「奥州のこと、一人も残さず捕らえた」と伝え、21日には藤原定長が院の使者として兼実に奥州の顛末を伝えています。
このあたりで朝廷や公家の「どうする?どうする?」という右往左往っぷりがみて取れます。

頼朝、鎌倉に帰還する

10月1日、頼朝は多賀城(陸奥国の国府)で郡や郷、荘園の管理のことを土地の地頭に命令し、泰衡に味方した武士(佐藤庄司、名取郡司、熊野別当)を釈放しました。

10月19日、下野国二荒子神社に戦勝祈願のお礼参りをした後、24日に鎌倉に到着しました。到着したその日に、無事鎌倉に到着したことを吉田経房(中納言)一条能保に手紙書いて伝令として京に送っています。

11月3日、24日に鎌倉を発した伝令と、平泉から京に送った使者が揃って鎌倉に戻って来ました。

この時、伝令が持っていた吉田経房の手紙に奥州合戦の事後に関する朝廷の意向が見えています。

奥州征伐の事については詳細なことがわからず、案じておりましたが(伝令によって詳細を知ることができ)法皇様は詳しく報告をお聞きになられました。

これほどまでに、あっという間に奥州を攻略してしまったことは、昔も今も例のないことだと思います。法皇様は「頼朝にはつくづく驚かされる」とのことでしたので、そのまま書いておきます。
十月二十四日          太宰権師(吉田経房のこと)

奥州で降伏した捕虜のこと
鎌倉殿のご判断にお任せします。但し、朝廷の臣下(朝臣)として裁決する必要があるべき者は、こちらより流罪(島流し)の公文書をお出ししますので、おってご連絡ください。

恩賞のこと
あまりにも素早い征伐に感じ入っております。鎌倉殿のお考えによって恩賞を与えることは可能です。按察使の官職に空きがあります。これに任命されるというのはいかがでしょう。鎌倉殿の郎党(御家人)の中から、特に手柄のあった者を書き送って下さい。確実にその表彰を行います。

『吾妻鏡』文治五年十一月三日

この手紙について頼朝は同月6日「恩賞は辞退させていただきます」という内容の返書を書いて一条能保へ使いを出しました。

大河兼任の乱が勃発

12月23日夜、奥州平泉から鎌倉に伝令がもたらされました。前伊予守義経、木曽左馬頭義仲の子(義高)、藤原秀衡の子と名乗る者たちが兵を集めて鎌倉に進軍するという噂がでているというものでした。

伝令の知らせを受けて会議が開かれ、北陸道へ軍勢を派遣することに決まりました。藤原俊兼(筑後権守)が調整し、小諸光兼(元義仲の郎党)佐々木盛綱(佐々木三兄弟の三弟)が出陣することに決定します。

しかしそれでは不安に思ったのか24日なって、

工藤行光(工藤氏庶流)
由利維平(八郎/泰衡の郎党で捕虜になった後釈放され御家人になった)
近藤国平(頼朝旗揚げ時からの御家人)

らに奥州に向けて小諸、佐々木への増援、後詰として出陣させています。

この時まではまだ何が起きているのかよくわかっていなかったのですが、鎌倉がこの反乱を確実に把握したのは、年が明けた1190年(文治六年)1月6日のことでした。

首謀者は奥州藤原氏四代目の故・藤原泰衡の家人の大河兼任という人物でした。

兼任は前年12月頃に反逆を計画し、ある時は「俺は義経」だといって出羽国河辺庄(山形県東田川郡)に現れ、またある時は「俺は木曾冠者義仲の息子の朝日冠者(義高)」だと名乗って秋田県仙北郡(秋田県横手市)で蜂起していました。

そして兼任は、長男の鶴太郎、次男の内次郎と七千余騎の兵を連れて、鎌倉方に向かって出発したのです。

東北の御家人が事件のあらましを急ぎ鎌倉に報告したのが1月6日でした。

事の次第を知った頼朝は、7日、平盛時(頼朝の右筆兼政所知家事)二階堂行政(政所執事)に、御家人招集の命令を、相模より西の御家人に向けて出させました。

乱の動きと結末

1月8日、頼朝は東北の反乱に対して、本軍の派遣を決定します。
軍勢の編成は以下の通り

海道(常磐方面)大将軍は千葉常胤
山道(鎌倉街道?)大将軍は比企能員


頼朝は東北の御家人は彼らに従うようにと命じつつ、東北に領地を持っている鎌倉在住の御家人(結城朝光など)は、一族の動きに関係なく思い立ったら個々で出陣と伝えています。

1月13日、頼朝は奥州反乱鎮圧のため、さらに上野(群馬県)、信濃(長野県)の御家人に出陣命令を発令しました。頼朝の危機感の表れでしょうか。

1月18日、奥州総奉行である葛西清重から伝令が届き、以下の武将の討死が報告されました。

橘公業(出羽国小鹿嶋地頭)
宇佐美実政(津軽奉行/奥州合戦で由利維平を捕らえた)
大見家秀(越後国白川地頭)
石岡友景(誰かわからない)


上記の報告と共に由利維平は逃亡したと報告されましたが、「橘公業は逃亡して、討死していたのが由利維平ではないか」と頼朝は疑問にもったそうです。

翌日それが頼朝の言う通りだったことが判明しますが、本当かどうか疑わしいです(『吾妻鏡』の虚構ではないかと)。

この後、合戦で手柄を立てたい御家人が有象無象のごとく奥州に出陣していきますが、一生懸命働く者はともかく、出陣したけど怠けている者などが続出しました。

それをちゃんと把握するため、頼朝は雑色(小物)をスパイ(監察者)として奥州に派遣し、適宜報告させています。

2月23日に千葉胤正、葛西清重、掘親家の伝令が鎌倉に到着し、反乱軍はほぼ鎮圧。大河兼任は逃亡したということが報告されています。

しかし頼朝は御家人の帰還命令を出しませんでした。兼任の行方が不明だったためです。

3月10日、その大河兼任の首が、千葉胤正の家人によって確認されました。

兼任は、自分の軍勢が全滅した後、身一つとなって気仙、仙北、山本ら(岩手県気仙郡、盛岡市、宮城県北部等)を通り、栗原寺(宮城県栗原市栗駒栗原)に到着。そこで木樵たちに囲まれて斧で叩き殺されてしまったと記録されています。

3月15日、頼朝は伊沢家景陸奥国留守職(鎌倉幕府奥州支社)に任じました。この伊沢家景が後の留守氏の祖になります。

3月25日、3月10日の大河兼任の死亡と数十人の捕虜の件が奥州から伝令で鎌倉に届きました。

これを以て、奥州合戦から始まったドンパチはすべて収束したことになります。

奥州合戦がもたらしたもの

頼朝は自分の鎌倉政権を磐石にするため、奥州藤原氏を平家滅亡後の敵対勢力と捉えました。

西国は朝廷が、東国は頼朝が、奥州は奥州藤原氏という三国鼎立に近い勢力図だったのですが、頼朝にとって、朝廷と直で結びついている奥州藤原氏は背後の脅威だったと思われます。

そのため、是が非でも奥州藤原氏を滅ぼす必要がありました。

また、奥州合戦は頼朝が自分の意思で日本全国の御家人を統帥し、動かせるということを朝廷に見せつけたデモンストレーションでもあったわけです。

加えて、朝廷の命令書(宣旨)がなくとも頼朝の意思さえあれば、鎌倉政権の軍事力の動員が可能であることを証明しました。

かつて頼朝の先祖である源義家(八幡太郎)は、陸奥守在任中、出羽清原氏の内部抗争に介入しました(「後三年の役」)が、朝廷はこれを「私戦」とみなし、官符(公戦とみなす証書)を発給しなかったため、滞っていた陸奥国の官物(年貢)をすべて私費で弁済する羽目になっています。

今回の頼朝の奥州合戦も、一歩間違えば「私戦」扱いになる可能性は高かったと思われます。

しかし朝廷は、頼朝と事を構える気はサラサラなく、かといって朝廷に歯向かっているわけでもない奥州藤原氏の追討宣旨や院宣など出したくもなかったはずです。

そのあたり、『玉葉』を読む限り、朝廷内部で相当のスッタモンダがあったと推察します。だから後追いで追討宣旨が出たのだ考えています。

奥州合戦後で奥州総奉行として葛西清重が任じられ、大河兼任の乱後、陸奥国留守職として伊沢家景が任じられたことで、鎌倉政権の支配権力は奥州に一定の力を及ぼすようになりました。

今度は頼朝の鎌倉政権が、朝廷にとっては脅威の存在になったわけです。
それゆえ、後白河法皇は頼朝の上洛を心から望んでいました。

そして西暦1190年(建久元年)11月、頼朝は上洛します。
頼朝が鎌倉に戻るまでの12月14日の間、頼朝と後白河の間は8回に渡る会談が設けられ、朝廷と鎌倉の新しい関係を模索していたと思われます。

まさに新しい時代の幕開けとも言えるものでした。

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