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第15話「第二次石ノ城の戦い」(島津に待ったをかけた男『大友宗麟』)

西暦1578年(天正六年)8月、大友宗麟は、島津氏の出方に目立った活動がないことを鑑み、いよいよ自らが出陣して本格的に日向(宮崎県)侵攻を決意しました。

宗麟は全軍の総大将を田原親賢(宗麟正室の兄弟)に命じ、彼に20,000兵を与えると、その他に田北鎮周、蒲池鑑盛、吉弘鑑理、斎藤鎮実らに本隊の20,000兵を率いさせ、総勢40,000兵を越える大軍勢で日向に侵攻したのです。

宗麟の出陣

宗麟の出陣に際し、大友家の軍師、角隈石宗は以下のように諌めました。

「占いに凶が出たので出陣はお止め下さい」
「去年現われた彗星の尾が西に伸びています。南西に向かって出陣すれば負けは必定となります」

しかし、宗麟はもちろん、総大将の田原親賢も

「3月の戦(土持親成との戦い)の前もそちは同じ事を申したが、勝ったではないか」

と反論し、聞き入れようとしませんでした。

宗麟は、務志賀(宮崎県延岡市無鹿町2丁目)まで進軍し、ここの留守居として守備に当たらせていた佐伯惟教をねぎらい、ここを本陣とすることを宣言します。

島津のリベンジ

同年9月17日、島津家当主・島津義久は、島津征久(ゆきひさ)を召し出し、大友勢であり、伊東の旧臣である長倉勘解由左衛門尉(祐政)が立て篭る石ノ城(宮崎県児湯郡木城町大字石河内)攻略を命じました。

石ノ城は同年6月、島津忠長(義久の従兄弟)伊集院忠棟(義久家老)が7,000兵で攻めて、城兵にコテンパンにされ、500兵を失い、忠長が負傷する大敗を喫した城でした。

まさに義久にとってはリベンジであり、島津全軍の士気を鼓舞するためにも、この城だけは大友との決戦の前に落としておかねば寝覚めが悪い城でした。

島津征久、当時28歳。父は島津忠将(しまづ ただまさ)といい、島津一門の相州家当主で、第15代島津家当主・島津貴久の弟でした。よって貴久嫡男である義久、そして忠長にとっては従兄弟にあたります。後に、彼は以久(もちひさ)と名を改め、日向佐土原藩三万石の初代藩主となる男です。

義久の命を受けた征久は、伊集院忠棟平田光宗(帖佐地頭)上井覚兼(高原地頭)らを副将として約10,000兵を率いて石ノ城を攻めました。島津にとっては決して負けてはならない不退転の戦でした。

第二次石ノ城の戦い

石ノ城は前の話でも書きましたが、断崖絶壁の上に築かれた天然の要害であり、かつ深い天然の渓流に守られており、その防御能力は格段に高いまさに「要塞」とも呼べる城でした。

10,000兵で攻める島津軍に対し、長倉勘解由左衛門尉が率いる兵はわずか1000兵あまりしかなく、それでも城の防御能力を最大限に活かしながら、島津軍を寄せ付けませんでした。

征久は、ただ数の多さで攻めてはダメだと考えて、兵を複数に分け、交代制で昼夜を問わず終始攻め寄せる戦法を取りました。このため、石ノ城内の兵士達は、疲労が色濃く見えてきました。

長倉はなんとか島津軍の士気を下げるため、ある方策を考えつきます。

「島津右馬頭」という紙を貼った人形を城壁の上に掲げたのです。
「右馬頭」は征久の官職名であるため、これは明らかに征久を指し示したものでした。

驚いたのは最前線で戦っていた兵たちでした。これから攻め落とそうとする城に総大将の名前が貼られた人形が掲げられているわけですから、無理もありません。

自分たちが攻めかかって、もしあの人形に傷でつけたら、総大将に呪いがかかるのではないかと躊躇し始めてしまったのです。

「マズい......」

この状況を見てそう思った征久は「なんぞ良い手はないか?」と家臣たちに尋ねると、安藤備後守という家臣が「殿自らの手であの人代(人形)を射抜きなされ。後のことは私がなんとか致します」と答えると、

「誰か、弓を持て!それと馬も」

と下知を降し、弓を寄越すと馬に跨がり、石ノ城の搦手まで駆け寄せました。

城壁の外から件の人形までわずか50~60メートル足らずの所まで近づき、片手で矢を弓につがえ、一瞬手綱を離して弓を力一杯引き、人形目がけて矢を解き放ちました。

矢は見事、人形の頭、いや、額を射抜きました。
これを見た安藤備後守は

「おのおの方、あれを見られい。我が殿が見事あの人代の頭を射抜きされたぞ!あれこそ殿のご武運が高まり、この城を落とす吉兆に相違あるまい!」

と大声で触れ回り、士気が落ちていた将兵も

「殿があの人代を撃ち落とされた」
「我らが殿にこそ武運がついておるのじゃ」

と囁き始め、

「殿が自ら己の人代を討たれたのじゃ。なんとしてもこの城を落とさねば!」

という機運が高まってきました。
安藤備後守はこれを狙っていたのです。

「殿の御恩に報いんがためにも、我らはあの石ノ城を落とさねばならぬ。命ある者は儂に続け!」

と声高に叫ぶと、馬上の武士から兵、足軽に至るまで安藤備後守に連なって石ノ城に攻めかかりました。

もちろん、城側もただ漫然と見ているわけではなく、城壁から矢や鉄砲を打ち掛けますが、島津の一部の兵が城壁に取り付き、じわじわと城壁をよじ登っていきました。

よじ登った兵は見張り番の敵兵の喉を掻き切って城に侵入したり、敵の鉄砲を分捕ったりゲリラ戦法を駆使して、どんどん石ノ城に入り込んでいきました。

城内に侵入した島津軍にとって、疲労困憊した長倉軍は敵ではありませんでした。侵入した島津軍は前線の城兵を次々に落とし、石ノ城の防備能力は時と共に弱体化していき、もはやこの勢いを押さえ込むことはできませんでした。

西暦1578年(天正六年)9月29日、長倉勘解由左衛門尉は島津陣中に和睦の使者を遣わしました。島津征久はこの申し出を受理し、島津勢の使者として安藤備後守を遣わしました。長倉勘解由左衛門尉は神妙に城を明け渡し、その日のうちに退却し、豊後の大友勢と合流したといいます。

島津征久は石ノ城を見事落とし、義久の期待に応え、6月の敗戦の雪辱を晴らしました。島津の兵の士気はすごぶる高まり、次は高城じゃ!と意気盛んに進軍を開始します。

この頃、大友氏はまだ耳川(日向市美々津)を越えたばかりの南岸沿いの山辺に陣を張り、高城方面まで動いていませんでした。

島津と大友の決戦はまもなくその火蓋を切ろうとしていました。

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