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奥州藤原氏の最期

先週から本編で華麗にすっ飛ばされた「奥州合戦」の顛末を書いております。先週を読まれていないかたはこちらから(↓)

前回までは義経が討たれた後の、奥州藤原氏を討ちたい源頼朝(演:大泉洋)と、これ以上頼朝に力を与えたくない朝廷の丁々発止を『吾妻鏡』『玉葉』を元にまとめてみました。

今回は実際の戦いの流れと、合戦終了後の動きなどをまとめたいと思います。

奥州合戦が始まるまで

西暦1189年(文治五年)7月19日、頼朝ら鎌倉軍は奥州に向けて出発しました。7月25日、下野国古多橋(栃木県宇都宮市)に到着。宇都宮の二荒山神社に戦勝祈願をした後、一泊して翌日出発しようとした矢先、思わぬ武将が頼朝のもとに駆けつけています。

それは常陸国の佐竹秀義でした。

常陸佐竹氏は河内源氏義光流の嫡流でしたが、平家と昵懇にあり、頼朝に逆らっていました。しかし、1180年(治承四年)11月の金砂城の戦いで、秀義の兄・義政(ドラマで上総広常に殺された人)が殺された上に所領も奪われ、当時は族滅の危機にありました。

生き残った佐竹一族は奥州に逃げ、1183年に父・隆義が病死し、秀義が後を継いだのです。

この時、秀義は無地の白旗を持ってきたと言います。白旗は源氏の棟梁の旗であり、頼朝は秀義を叱責しました。そして自分の持っている扇を秀義に与え、「これをお前の旗の上部につけておけ」と命じたそうです。

これが佐竹氏の家紋(五本骨扇に月丸↓)の由来と言われています。

7月28日、下野国新渡戸(栃木県内のどこか)にて、頼朝は軍勢の数を把握するために御家人に手勢の数を申告させています。

ここで鎌倉から梶原景時から推薦された囚人・城長茂の手勢が250人ということが判明します。長茂は平家方の武士で越後守に任じられていましたが、木曾義仲に越後を追われ、囚人として鎌倉に囚われていました。

景時はその武勇を惜しみ、今回の従軍を許されました。
その囚人になぜ250人もの手勢がいるのだと頼朝は驚きましたが、長茂の従軍を知ってかつての家人が戻ってきたと景時が説明し、長茂の家人の忠義心に感心したそうです。

石那坂の戦い

進軍する鎌倉軍に対し、奥州藤原氏の四代目・藤原泰衡(演:山本浩司)は、あらかじめ伊達郡(福島県北東部)の阿津賀志山(厚樫山)の南の麓に、三重の土塁と近くの阿武隈川から引いた水堀で固めた大要塞を築いていました。

この砦には泰衡の兄・藤原国衡(演:平山祐介)を総大将に据えました。その数およそ20,000。

この砦跡は現在も「阿津賀志山防塁跡」として残っています。近くを国道4号線が走っており、4号線自体が旧日光街道、奥州街道を踏襲した形で道路が造られていることから、当時、南から宮城県に入るには、ここから入るしかないため、ここが鎌倉軍との最前線になることは泰衡も予測していたようです。

泰衡は国分原鞭楯(現在の宮城県仙台市宮城野区)に本陣を置きました。

一方で、泰衡は阿津賀志山の砦の「前の備え」として、石那坂(福島県福島市平石石那坂)にも砦を築き、佐藤基治(義経郎党の佐藤正信、継信兄弟の父)を守将に任じていました。

そしてここでも合戦が起きていました。

北上する頼朝はこの石那坂砦を確認すると、

常陸入道念西(伊達氏の祖・伊達朝宗と伝わる)
常陸冠者為宗(念西嫡男/常陸国伊佐郡の領主・伊佐氏当主)
常陸二郎為重(念西次男/伊達氏初代・伊達宗村と伝わる)
常陸三郎資綱(念西三男)
常陸四郎為家(念西四男)


上記五名の一族にこの砦の攻略を命じました。
五名は必死で戦い、見事佐藤基治を捕縛。その他、基治の手勢18名を打ち取り、その首を阿津賀志山に晒したと言われます。

この時、軍功のあったもの念西父子に対し、頼朝は褒美として伊達郡を与えました。念西は出家の身、為宗は伊佐氏当主としての仕事もあったことから、家督は三男の為重が継いで伊達氏を名乗ったと言われます。

阿津賀志山の戦い

8月7日、頼朝は国見宿(福島県伊達郡国見町)に到着しました。この時の鎌倉軍はおよそ25,000。

この日の夜、頼朝は畠山重忠(演:中川大志)に阿津賀志山砦を襲わせました。重忠は自分が連れてきた兵の中から土木工事に強そうな者を80人ぐらい選ぶと、砦の堀を埋めさせました。

8月8日、奥州軍・金剛秀綱が数千騎を率いて阿津賀志山の前に陣を構えました。頼朝は

畠山重忠(畠山氏当主)
小山朝光(小山政光四男/後の結城氏初代・結城朝光)
加藤景廉(頼朝挙兵時からの郎党)
工藤行光(工藤氏庶流)
工藤祐光(工藤氏庶流)


上記5名に先鋒を命じ、卯の刻(午前6時)開戦の矢が放たれました。
秀綱はこれをよく防ぎましたが衆寡敵せず、巳の刻(午前10時)に砦に退却しました。

8月9日夜、頼朝はこれ以上の時間的ロスをなくすため、明日の朝、阿津賀志山を越えて砦を攻めるように命じました。すると、ここで

三浦義村(相模三浦氏嫡男/演:山本耕史)
葛西清重(秩父氏・豊島氏庶流/下総葛西御厨領主)
工藤行光(工藤氏庶流)
工藤祐光(工藤氏庶流)
狩野親光(狩野氏二代目)
藤澤清近(弓馬の達人)
河村千鶴丸(参加武将最年少?/13歳の若武者)


上記7名が抜け駆けしようと、畠山重忠の軍勢を追い越して砦に1番のりをしようとしました。これを知った義忠の家人が重忠に報告すると

「放っておけ。誰が一番乗りをしようが、先陣を受けたわっているのはこの私。後からでも私が乗り込んでいけば、その前に起きた戦いもみんなまとめて私の手柄になるだけだ。それに先陣を争っている連中を邪魔するのは武士にあるまじき行為。知らんぷりをするに限るよ」

『吾妻鏡』文治五年己酉

とあっさり交わしたそうです。
このあたり、やはり人間が出来過ぎてますね。この人は(汗)。

7名は夜通しで進軍し、翌日の8月10日の朝、阿津賀志山砦に攻め寄せました。これを迎え撃ったのは伴藤八という泰衡の家人の中では剛の者。藤八は狩野親光を討ち取ったものの、工藤行光と激戦の末、行光に討たれてしまいました。

他にも葛西清重と河村千鶴丸も数人討ち取ったらしいのですが、他の人たちの軍功は『吾妻鏡』には見えません。何をしてたのでしょうか?

卯の刻(午前6時)に入り、もともとの先陣を承っていた畠山重忠はもちろん、下河辺行平、三浦義澄(演:佐藤B作)、三浦義連らも加わって、砦の木戸口で合戦を続けています。

その頃、小山朝光と朝光兄・小山朝政の家人たちが、阿津賀志山の砦の裏山に回って、大声を上げて矢を射掛けると、突然の奇襲に砦内が大混乱に陥りました。ここで国衡らは退却するしかありませんでした。

小山朝光は金剛秀綱を討ち取りました。砦から逃げた兵が本陣の泰衡に砦が敗れたことを伝えると、本陣をたたんで逃げました。

国衡の最期

国衡は出羽街道を使って逃亡中に、たまたま近くにいた和田義盛(演:横田栄司)がそれを見つけ、弓矢の対決に。

お互い名乗って弓矢をつがえましたが、矢を放ったのは義盛が早く、義盛の矢は国衡の腕に命中しました。

国衡はその痛みに耐えられず、馬を翻して逃走体制に切り替えると、義盛がそれを追います。しかし、そこに畠山重忠が割り込みました。

国衡は逃げるのに必死で慌てていたのか手綱捌きを誤り、馬ごと水田に落ちてしまったので、ぬかるみから出られなくなりました。そこを重忠の家人である大串重親がサッと討ち取ってしまいました。

畠山重忠VS和田義盛の口論

8月11日、頼朝は船迫(宮城県柴田郡柴田町)に到着。この場で畠山重忠が国衡の首を持参し、頼朝の検分を受けています。しかし、ここで一悶着が発生しました。和田義盛が「国衡を討ったのは自分だ」と主張したのです。『吾妻鏡』に記載されている内容は以下の通りです。

義盛「国衡は私の矢に当たって命を落とすことになったです。ですからこれは次郎(重忠)の手柄ではありません」

重忠「はっはっは。小太郎殿、では君が討ったという証拠はどこにあるのかな?私が国衡の首を持ってきている以上、私の手柄に疑いはないと思うが?」

義盛「首についてはお前の言う通りだ。だが国衡の鎧に俺の矢が当たった証拠があるはずだ。ちょうど国衡の鎧の左側の袖の上から2枚目、いや3枚目の小札(こざね)にあるはずだ。鎧は威毛は紅色で馬は黒毛だった」

義盛の言い分に基づいて、国衡の鎧を調べたところ、義盛の言う位置に矢で射抜かれた穴が確かにありました。

頼朝「次郎は国衡に対して矢を放たなかったのか?」
義盛「放ちませんでした」

となると、義盛の言っていることは間違いではありません。しかしそうなると重忠が嘘を言っていることになります。重忠が清廉潔白で嘘など言う人間ではありません。

しかし、国衡を討ったのは重忠の郎党・大串重親です。重忠は義盛が追撃しようとするのを止めに入ったため、その前に国衡が矢傷を受けていたことを知りなかっただけでした。つまり双方正しかったのです。

『吾妻鏡』文治五年己酉

平泉陥落と泰衡の最期

8月14日、国分原鞭楯を逃亡した泰衡が玉造郡(宮城県大崎市)にいるという噂がありました。他にも潜伏情報はありましたが、精査の結果、確度の高さは玉造郡の方が上だったので、多賀城(国府/宮城県多賀城市)から黒川(宮城県黒川郡)を通って玉造軍に侵攻することにしました。

8月20日、泰衡が潜伏しているという玉造郡の多加波々城を包囲しましたが、泰衡はすでに逃亡した後でした。城に残っていた泰衡の家人は降伏しました。

いよいよ頼朝は奥州藤原氏の本拠・平泉への軍を進めます。
その際に、先に進んでいる先陣(畠山重忠、和田義盛、三浦義連、小山朝政ら)に下記命令書を出しています。

平泉に入る際には、泰衡が城を構えて、兵隊達を適宜配置して我々を待っているに違いない。よって、たった1,000や2,000騎で攻撃してはならない。我々の総勢20,000騎の軍勢で、一気に攻め立てるように心せよ。すでに相手はすでに敗北の兵だ。こんなところで侍一人でも無駄死にさせる事の無い様、配慮せよ。

『吾妻鏡』文治五年己酉

平泉に向かう途中、泰衡が配置した兵や軍勢に進軍を阻まれましたが、鎌倉軍はこれを確実に撃破して、8月21日頼朝は平泉に入りました。しかし、平泉にも泰衡の姿はなく、家来たちに建物や宝物に火をかけて灰燼に帰させました。

8月22日、頼朝は泰衡の平泉館に入りました。すべてが燃え尽き、煙と地面しかなくなっていたようです。しかし一棟の倉庫だけが焼け残っており、そこには様々な宝物が残っていました。

頼朝はここで御家人たちに泰衡の捜索を命じます。

8月25日、東胤頼(千葉常胤の六男)が衣川館で藤原基成(泰衡祖父)を逮捕しています。

8月26日、頼朝の元に1通の手紙が投げ込まれました。その手紙を中原親能が読み上げました。

伊予守(義経)のことは、父入道(藤原秀衡)が面倒を見ていたことです。泰衡はなぜこうなってしまったのかは分かりません。父が死んだ後、貴方(鎌倉殿)の命令を受け、討ちました。これは勲功と云えるものではないでしょうか。しかしながら、今、私は罪も無いのに成敗されるのは何故なのでしょう。鎌倉殿の侵攻のため、私は先祖代々の地(平泉)から離れ、山林の中におります。とっても悲しい事です。

鎌倉殿は陸奥と出羽の両国は、既に支配下におかれたのですから、泰衡については罪を許していただき、御家人に加えていただきたい。それが許されないのであれば、死罪一等を減じて流罪に処していただきたい。もし慈悲をかけて、ご返事を戴けるのならば、比内郡(秋田県大館市)に落として置いてください。その内容の是非によって、投降するかどうかを決めます。

『吾妻鏡』文治五年己酉

これを受けて、土肥実平は

「試しに鎌倉殿のご返事を比内郡の辺りに捨て置いて、そのあたりに侍を潜ませて、手紙を拾いにきた者が現れれば、捕らえて泰衡の潜伏場所を聞き出すと言うのは?」

と頼朝に提案しますが、頼朝は「その必要はない」と言い、「泰衡が比内郡に置くように言っているなら、その郡内をしらみつぶしに探し出せ」と命じました。

9月2日、頼朝は本陣を厨川(岩手県盛岡市)に移しました。ここは頼朝の先祖である源頼義が当時の奥州奥六郡を支配していた安倍貞任を滅ぼした場所でした。つまり先祖の功徳にあやかって、ここで泰衡がみつかりそうな気がしたのです。

9月3日、泰衡は蝦夷地に逃げるため津軽に向かいました。その途中、河田次郎が守る大館贄柵(秋田県大館市)で休息をとるため立ち寄ったところを、次郎を始めその郎党たちに襲われ、その首を取られてしまいます。

9月4日、頼朝は陣岡(岩手県紫波郡紫波町宮手陣ケ岡)に陣を移して、北陸方面軍と合流しました。そして泰衡の首を持って河田次郎が頼朝に元に現れたのは9月6日でした。

泰衡の首は梶原景時を通じて頼朝の元に捧げられ、和田義盛、畠山重忠が首実験を行い、囚人の赤田次郎に泰衡の首に間違いないかを確かめさせました。

間違いないことがわかると、頼朝は首の管理を和田義盛に命じました。
そして梶原景時に河田次郎への伝言を言い渡しています。
伝言の内容は以下の通りです。

お前の行為は、一見手柄を上げたように見えるが、泰衡はすでに鎌倉殿の手の中の玉のような状況。遅かれ早かれ我らの手に入ることは決まっていて、我が軍以外の武力を必要としていなかった。それなのに、先祖代々の家来としての恩を忘れて、主人の首を刎ねるとは……その罪は、八虐罪(謀反・謀大逆・謀叛・悪逆・不道・大不敬・不孝・不義)に匹敵するので、恩賞に値しない。他の御家人たちの見せしめのために、お前を御家人にはしない

『吾妻鏡』文治五年己酉

そして、河田次郎は小山朝光の手によって斬首となりました。
一方、和田義盛の管理下に置かれた泰衡の首は釘に木で打ち付けて晒し首にされました。これも源頼義が安倍貞任を討った時と同じ仕打ちでした。

ここに藤原清衡にはじまった奥州藤原氏は四代で滅亡したのです。

由利八郎の赦免

泰衡の家人に由利八郎という者がいました。頼朝の本陣に連れてきたのは宇佐美実政ですが、天野則景は「自分が生け捕った」と主張してきました。
頼朝は

「二階堂行政に命じて馬の毛並みと鎧の威色を書き出させて、由利八郎に確かめさせろ」

梶原景時に命じました。

景時は由利八郎に向かって立ったまま尋問しました。

「お前は、泰衡の家来の中でも、名のある武将。よって、事の真偽を無理に取り繕う必要はない。正しい事だけを云え。何色の威しの鎧を着た者が、お前を生け捕ったのだ?」

『吾妻鏡』文治五年己酉

これに由利八郎は怒ってこう返しました。

「お前は兵衛佐殿(頼朝)の家人か?。今の物言いは、身分を逸した物言いだ。例えようもないほどだ。故御舘(藤原秀衡)は、鎮守府将軍藤原秀郷の直系の正統な子孫。奥州藤原氏三代は鎮守府将軍を拝命した家系である。お前の主人(頼朝)さえも、そのような物言いはしないだろう。

それに、お前と私は家来同士という同格の身分。どちらが上も下もないだろう。運が無くて囚人となるのは、武士の世界には良くある事なのだ。それを「俺は鎌倉殿の家来だ」と言う態度を前面に押し出してきやがって。お前に云う事なんか何もない。ましてや、質問に答える必要もない。

『吾妻鏡』文治五年己酉

景時は、顔を真っ赤にして、頼朝の元に行き

「あの男は、悪口ばっかり言っていて、きちんと話をしようとしないので、証言の取りようがありません」

『吾妻鏡』文治五年己酉

といいました。しかし、頼朝は

「はっはぁ……景時、お前、無礼な態度をしたのではないか?囚人がそれを怒っているのだろう。それは囚人の物言いの方が道理が通っている。お前じゃダメだ。畠山重忠を呼んで、尋問させろ」

『吾妻鏡』文治五年己酉

ということでピッチャー交代、畠山重忠くんの出番になりました。
重忠は自分で敷皮を持参し、由利八郎の前へ来てそれに座り、「鎌倉殿の家人・武蔵国畠山郷の住人・畠山次郎でござる」と挨拶をしてから云いました。

「弓馬に関わる武士として、敵に捕われる事は、漢家(中国)でも本朝(日本)でもよくあること、必ずしもこれを恥ずかしいと思うことではありませぬ。鎌倉殿のお父上・故左典厩様(左馬頭義朝)も、永暦年中(正しくは平治二年)に不慮の死を遂げました。

鎌倉殿も囚人となって六波羅の平家へ連行され、伊豆へ流罪になりました。それでも、天に見捨てられたわけではなかったので、天下を治めることになりました。

貴殿も今は捕虜の身となってはおりますが、将来にまで悲観し、恨みを残すことはありません。奥六郡の内では、貴殿は勇敢な武士としての誉れがあり、その名を予め聞いています。それで、我が方の勇士達も手柄を立てたいと、貴殿を捕えたことを、二名の武士が互いに主張しあって揉めております。

さきほど梶原平三が鎧や馬の色を聞いたのはそういう事情です。それによって彼等の手柄の有る無しも決まります。改めてお尋ねいたします。貴殿は何色の鎧を着た者に生け捕られたのですか?はっきりと云って下さい。」

『吾妻鏡』文治五年己酉

丁寧な重忠の物言いに由利八郎は感服し

「貴殿は畠山殿と仰られるのか。先程の男とは似てもにつかぬ礼儀正しさ、八郎、感服いたしました。そこまで礼に則られて答えぬのは当方の恥。申し上げます。黒糸威しの鎧を着て、鹿毛の馬に乗った人が、まず私を捕まえて馬から引きずり落としました。その後で、追ってきた者は沢山居て、後は見分けがつきませんでした」

『吾妻鏡』文治五年己酉

と答え、重忠はそれを頼朝に報告しました。
その色の鎧と馬から、由利八郎を捕らえたのは宇佐美実政であることが確定しました。しかし、問題はそこで終わりませんでした。

頼朝がその男に会ってみたいので連れて参れと言い出したのです。
由利八郎は重忠に連れられ、本陣に入り、頼朝は幔幕を上げて対面しました。
頼朝は

「そなたの主人の泰衡は、その権威を以って陸奥・出羽の両国に振るっていたので征伐をするのに、かなり苦労しそうだと思ったが、部下に恵まれなかったようで、川田次郎1人に殺されてしまった。

両国を支配し、総勢170,000騎を大勢力の大将なのに、100日も支える事が出来ず、たった20日間で一族が滅びた。噂ほどのことではなかったな」

『吾妻鏡』文治五年己酉

と言うと、由利八郎は

「お言葉ながら、まともな部下も多少はおりました。ですが若い武将は領内の砦に派遣され、年老いた武将は体が満足に動けないので、自殺してしまいました。私のような不肖の者は、捕虜になってしまったので、最後までお供を出来ませんでした。

故左典厩殿(左馬頭義朝)は、東海道の15ケ国を管理しておられましたが、平治の乱では1日も支えられないで落ちぶれましたね。数万騎の大将であっても、長田忠致1人のために簡単に殺されてしまいました。これは今も昔も甲乙つけがたいことかと。

泰衡が管理していたのは、たった2国の軍勢ですよ。数十日間抵抗をして鎌倉殿を悩ませました。簡単に不覚を取った奴だと言われるのは心外ですね」

『吾妻鏡』文治五年己酉

と答えたので、頼朝は言葉を失って幔幕を下げさせました。

そして、重忠に対してこう言ったのです。

「由利は、そなたの預かり囚人(めしうど)にする、大事にするように」

この逸話等々から畠山重忠は「東国武士の鑑」と言われるようになります。

奥州合戦その後

頼朝はその後もしばらく奥州に留まり、神社仏閣の保護に尽力しています。奥州藤原氏が岩手郡の多くの寺社を保護していたという話を聞き、寺社の荘園や田畑が立ち行くように比企能員(演:佐藤二朗)に命じていたりしています。

9月9日夜、頼朝の元に朝廷からの宣旨(命令書)が届きます。その命令書は「泰衡追討の宣旨」でした。

あれだけイチャモンつけて頼朝の出陣を遅らせといて、いまさら宣旨もへったくれもないでしょう(失笑)。

9月11日、頼朝は陣岡を出発。
9月12日、厨川に到着。
9月13日、由利八郎、囚人身分から解放。

9月17日、清衡の時代から今に至るまで奥州藤原氏によって建立されたすべての寺院や建築物をまとめた書物が頼朝に献上され、平泉の寺社の領地は地頭でもあっても侵すべからずと決められました。

9月18日、秀衡四男・藤原高衡が投降し、これで泰衡軍のほぼすべてが降伏しました。そしてこの日、京の朝廷に泰衡を滅ぼしたことを報告しています。1つは上皇の耳にはいれるべき文書。もう1つが中納言吉田経房(『吉記』の作者)あての私的な手紙です。

その私的な手紙の内容がまぁ、嫌味たらしいというか慇懃無礼というか…..
以下に書き下します。

朝廷から「今年は出陣を見合わせるように」との仰せを頂いておりましたが、すでに御家人を集めてしまったので、このまま放っておくわけにもいきませんでした。もしかしたら長丁場になるかもしれないので、まずは奥州へ攻め込んでみたら、この通り泰衡をあっさり滅ぼしてしまいました。

先日、朝廷の命令である「宣旨」を受理しましたので、朝廷もお認めになられている戦いであるとして問題はないと考えておりますが、奥州合戦に反対していた上皇様のご機嫌を気にしております。

公卿の皆様の決議でも反対だったと聞いております。実際、本当のところどうだったのでしょうか?どうか内緒で教えてください。今では(朝廷の命を受けずに軍事活動を行ったこと)恐縮しております。そうそう前民部少輔基成とその息子三人を捕らえました。この基成は平家合戦の時も、今度の事も、京都朝廷をシカトしていた連中です。まぁ、たいした人間ではありませんでした。

『吾妻鏡』文治五年己酉

頼朝の中でこの文章の内容と腹の中の感情とが著しい不一致を起こしているだろうなと推察します。

9月22日、陸奥国の御家人の監督および治安維持の役割として葛西清重が奥州総奉行に任じられました。後の戦国大名・葛西氏はここから始まるようです。

以上が奥州合戦のあらましでした。
次回は奥州合戦後の鎌倉と朝廷のやりとりに焦点を当てたいと思います。

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