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死を賭ける賭博師・友川カズキの轍 第一章『裏通りの美学』

前回は下記のリンク

電車の窓から安らぎを ホレ
求める顔がのぞいてる
スッタコラサット カバンかかえ ホレ
家路を急ぐ人の群れ

友川カズキ『人生劇場裏通り』

友川カズキは十九で秋田県から集団就職のため上京する。当初は百貨店の接客業をするも秋田弁の訛りの為に配送系の仕事にまわされてしまう。その仕事もしばらくして辞め思索と苦心の時が続く。
彼を語る上で欠かせないバスケットとの関わりもこの時代にある。恩師・加藤氏より秋田県能代工業高校にてバスケットボールチームの講師を任されるのである。友川二十歳の時だ。
一度、秋田にコーチをするべく帰郷した彼であったが、再び上京する事になる。飯場にて働き始めたのだ。その時、スピーカーから流れてきた岡林信康の『チューリップのアップリケ』、『三谷ブルース』に多大なる衝撃を受け自身もギターを独学し始めた。作曲をする以前に彼はすでに詩作をしていた。それはいつの時点から始めたのか詳らかには分からない。しかし肉体労働を終えたその帰り自作の詩を冊子にしたものを売っていたという。その中に『胃袋の中の明日』などがある。(【川崎随談】 第十話「初期アルバム3作を回顧してみるなど」参照)。
当時、世間はアングラブームであった。反体制の時代の中でフォークミュージックは大衆に受け入れられ各地で全日本フォークジャンボリーが開催され友川はそこに出演した。そうしてここに追いて初めて歌手・友川カズキが誕生したのである。いかなる経緯か、それは定かではないが佐々木昭一郎NHKドラマ『さすらい』に出演し「非常にくだらない唄」を披露した。
友川は二十三歳の時あるレストランで歌い始めた。それを当時、音楽プロデューサーであった宇崎竜童氏が目をつけ、それがきっかけで一九七四年にシングルデビューを果たす。そのシングルが「上京の上京/朝」、「生きてるって言ってみろ/人生劇場裏通り」である。シングル版の「生きてるって言ってみろ」は宇崎竜童氏率いるダウンタウンウギブギバンドが行っているため、今我々が知っている楽曲とはその曲調を大きく事にする。当時の友川カズキのキャッチコピーは「遅れてきたフォーク歌手」であるがこれは大江健三郎の半自伝的小説『遅れてきた青年』をもじったものではないかと私は推察する。
さて一聴して(「生きているって言ってみろ」を除いて)二枚のシングルは友川らしくないと言って良いだろう。フォーク然とした曲調及び歌詞はその時代の潮流を読んだというべきか。しかし歌詞の面に注目すると後の友川の様に社会と自分との隔たりを指摘する様な歌詞も見受けられる。

東京の悲しさは
至る所に落ちている
訳もなく歳を取り
落ちぶれ落ちて行っても 
死んでも死んでも
こんなとこでは死にたくない

友川カズキ『上京の上京』

檻に入れられている熊が
かわいそうだな
鞭で打たれている牛が
かわいそうだな
檻や鞭で作る人
かわいそうだな

友川カズキ『朝』

友川は、彼自身の抱く違和感の正体は単なる社会や権力から起因するモノだけではなく、それを包括するモノに問題があると思ったのではないか。いわば、その様な状況を作り出した人間の総量に対して怒りを持っている様に思う。そして次にリリースされる三枚のフルアルバから如実にそれらが発露されるのだ。

第一章 完

参考資料
友川カズキ歌詞集
【川崎随談】 第十話「初期アルバム3作を回顧してみるなど」


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