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算数は、家庭学習するだけでもメンタルが成長する話

学校や塾で算数・数学の学習をしていて、何か他の科目と違って特別だと感じている人や家族の方は多いでしょう。算数の特徴の一つをお話しします。

前提:算数は演繹えんえき的なゲームである。

 そもそもなぜどの国にも「算数・数学」が学校教育としてあるのでしょうか?直接役に立つからということもありますが、やはり思考力を養うためではないかと思います。
 他の科目は、多くの知識を入れることが前提となっており、正解に対して「ふーん、そうなんだ。知らなかった。」と反応が出がちであるのに対して、算数は「あぁ、確かにそうだ。」とか「なんでそうなる?」と、理由に注意が向くことが多いです。新しいアイテムを手に入れるのではなく、既にある技術を強化することが主となる点が独特です。

算数は分かると面白い。

 そのように「既に知っているものを活用する」特性上、算数は多くの人にとって面白みが感じやすい科目だと思います。というのも「分かる楽しみ」があるからです。すっかり一般名詞となった「ピタゴラ装置」にしても、お笑い芸人にしても、ミステリーにしても、そうきたか、なるほどなと楽しめます。多くの前提知識を必要とせず、ただ理解できることが面白いという点が算数と共通しています。特に、意外な発想や結末が見られることが多い科目はやはり算数でしょう。
 また、他人が解いているのを観賞しても楽しいのですが、「自分で知識や技能を活用する喜び」も、天にも昇るような気持ち良さが味わえます。謎解きでもそうですし、本で蓄えたノウハウを仕事で活かすとき、何度も練習して修得した技を試合で使うとき、何物にもかえがたい快感が得られます。

算数は解けないと悔しい。

 一方、逆も然り。算数を面白く感じる人の多くは、クリアできないときには辛く、苦しいわけです。他の科目なら「なんで武将の幼名なんて聞くんだ!こんな問題知るか!」となるところ、算数は「なんで知っていることを使うだけなのに分からないんだ!アホか!」と責任が自分に突き刺さり、「悔しい」思いをします
 さらに、ゲームやスポーツと一線を画することとして、日々の自宅学習においては、タイムアップも無ければ、得点負けもありません。つまり、自力で解けなければ永久に閉じ込められるか、自ら負けを認めて答えを見るかの2択となるわけです。「相手が勝つから終了」ではなく、自分で負けと決めたときが負けになるところが特異です。しかも、時間をかけた問題ほど答えは見たくないものです。これは辛い。

負ける体験・悔しい気持ちによって成長する

 この「自ら負けを認めて、答えを見て悔しがる」ことこそ、算数という科目を通して得られる貴重な体験だと思います。誰かが自陣に攻めてきた訳でもないのに「参りました」と頭を下げねばなりません。そして、自分に何かが足りないことを自覚し、「なぜ気付かなかった?」「どうすれば自力で気付けた?」という問いに真剣に向き合い、再び長考に入ります。これは正しい振り返りの方法そのものです。自分の手に負えないものがあることを知っていくことで、行動に芯が入ります
 普段からスポーツなどに取り組む人はよいでしょうが、個人プレイばかりで周りがチヤホヤ褒める環境で生きてきた人が受験勉強に参入すると、大体この算数に打ちのめされ、折れたり、偽ったりと無駄な時間を使います。早めに失敗させ、兄弟げんかでも何でもいいので負けさせてあげるのが良いでしょう。


余談

いろいろ書きましたが、これらは全て「問題のレベルが本人にとって適当であり、本人が前向きに取り組んでいる」前提です。難問の用法・用量には気を付けましょう。また、受験が近くなると、じっくり考える時間そのものが取れなくなることと思いますので、余裕のあるときに何でも体験するのが良いです。

昔のデジタルゲームなどには、パズルが解けないと永久に先に進めず、ゲームオーバーになるわけでもない「詰みポイント」が多かったので、子どもなりに試行錯誤を何日間も繰り返し、問題解決能力や根気が相当鍛えられました。算数はまだ答えが手元にあるだけ、ぬるいのかも知れません。

2024年3月11日

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