03_海底の声-01

海底の声

放課後の教室は海の底のような静けさをもつ。海面の海鳥や漁師たちの賑やかな声が遙か遠い世界のものかの如く、窓の外の校庭の音が遠くから聴こえてくる。ただ一枚の窓を隔てた世界には、水深2000m以上もの距離があるのだ。

 そんな海の底でふらふらと彷徨う、まるっとした人影があった。それはとても弱りきった様子で何かを探す。

 「ぼくの、教科書。」

 泣き声混じりに呟くその言葉は、彼が探していた物の名前。トイレで見つけたそれは、彼を意味するある呼び方がマジックで汚く殴り書きされていた。

 これまで穏やかだった海底は、あることをきっかけに荒れ狂う海流が通る過酷な環境へと変わってしまった。

 それは彼に対するある呼び方が始まりだった。その呼び方がクラスに定着する頃には、その呼び方だけが独り歩きをし、様々な言葉を呼び寄せ、果ては今回のような行動へと連鎖した。

 彼が気が付いた時にはもう、穏やかなあの場所へは戻れないところまで流されてしまっていたのだ。

 「なんで・・・なんで。」

 静かな廊下に響く、その哀れな鳴き声は、この海の底で泡沫となり、霧散して、誰の耳にも届かない。むしろその声をかき消すかのように、五時を伝える町内のアナウンスが響き渡る。海底は夕陽に紅く染められて、長い一日が今終わろうとしていた。


 そんなことがあったので、私は見えない声を救う人になりたくて、教員になったのです。けれど、今の海底はあの時よりも静かで、そして暗い。年々海底は深さを増し、もはや私達の手の届かないところまでいってしまった。そう、海底は今や放課後の校庭だけではなく、帰宅後も小さな液晶の窓まで彼らの放課後は続いているのです。

 海底の声は今日もどこかで、誰にも聞かれず泡と消える。

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