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折々の1本 -2021年3月③-

カメラをたずさえて街に出て、自分の歩幅で焦ることなく歩いてきました。

偶然の出会いに反応して撮影したフィルム1本。その写真を歩いた順•撮った順で並べています。

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一歩ひいて見守るような視点が好きです。

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SNSで日々写真を見てるとタイムラインに流れてくる確率の高い人気スポットが分かってきますよね。そのような場所でも良い光が差し込んでいたり自分が惹かれたら私は撮影します。

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有名だからという理由でその場所を否定したら自分の可能性を狭めることになりますし、みんなが撮ってたから自分は撮らないというクールな姿勢をとってるうちにどんどん歪んだ性格になっていくのを恐れています。

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未来はいつも過去を変えている、と言われるように、過去や思い出は、すごく繊細なものだと感じるので私はできる限り何かを批判しないようにしてます。

例えば、あるカメラのことを悪く書くと、そのカメラを誰かから譲り受けて大事に使ってきた人の「これまで」を傷つけることになってしまうような気がするんです。

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フィルムを買いに秋葉原の《2nd BASE》へ。

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電車での移動中に『話す写真』(畠山直哉)を読みました。

〈僕が好きな写真は、意外性を持って、僕たちの暮らす世界を別の角度から照らし出して見せてくれるような、そんな写真です。〉

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私が写真を撮ったり文章を書いたりする理由の一つは、自分自身を療養するためです。

情報が高速で行き交う現代社会になじみにくい感じがあったり、居心地の悪さを感じていたり、だから自分自身が住みやすい世界、居心地の良い場所を写真や文章でつくろうとしているのかもしれません。これが撮ったり書いたりする理由の全てではありませんが、そういう側面はあるような気がします。 

同時に自分のためだけではなく、その先にいてくれる人たちを意識して撮ったり書いたりしたい気持ちが私にはあります。

見てくれる人たちが足を踏み入れやすい踏石のようなもの、親しみやすいトビラのようなものを写真と文章の中に用意するためには何が必要なんだろう...。そんなことを考えていきたいです。

最後まで読んでくださってどうもありがとうございます。

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