兎の正体|ジョイスる国のアリス(2)

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アリスは膝を抱えてすわっていた。隣の姉が、抱えている本の説明をつづける。読んでいた本は『フィネガンズ・ウェイク』といって、作者はジェイムズ・ジョイスという人だとか、読んでいたのは、その翻訳書であるだとか。

「もとは英語で書かれているの。でも英語っていっても辞書には載っていないような単語が多くて、意味がよくわからなくて、全部読むのは一苦労。有名な本だけど読まれていない本のランキング上位に挙がる作品よ。そんな訳もわからないものを日本語に訳したものが、この本。お姉ちゃんもまだ読めていないわ」姉は微笑みながらつづける。

「いま読んでいるのは柳瀬尚紀という人が日本語に訳した本で、『フィネガンズ・ウェイク』を初めて全部、日本語に訳したものなの。訳のわからない英語を――英語だけど英語とも言えないから《ジョイス語》なんて呼ばれている――その《ジョイス語》を日本語に訳したの。この日本語も、日本語だけど日本語とも言えないから《ヤナセ語》なんて呼ばれるときがあるわ」

「ふーん。そうなんだあ」とアリス。

「そう、遭難」と姉が応じた。「この本はね、よく迷宮にたとえられる。読んでいると自分がいまどこにいるのか、なにを読んでいるのかわからなくなる。迷って抜けられなくなるのよ。ジョイスさんが、あるいはディーダラスさんが、あるいはダイダロスさんが迷宮をつくって、柳瀬ウスさんがアリとアドネる意図で迷宮を移植したって漢字ね」

アリスは姉の言っていることがよくわからなかったので黙っていた。

「迷宮を下って深入りすると遭難するから、読みながら下らないことを管がえているの」と姉は照れながら言った。「でも、ときどき深入りしたくなる。穴があったら入りたいわ」

アリスはなんだか、姉に置いていかれたように思えて、膝を抱えなおした。

四月の柔らかな日差しを浴びようと、く寝る岸辺の草花が伸びをする。姉の運んだ書架の風が言葉を揺らす。アリスは退屈座りのまま、とうとううとうとしはじめた。

ふと気づけば、隣で白兎がうとうとしている。それ自体はさしてびっくりするほどのことでもない。のみならずアリスは「うたた寝る隣卯月の白兎」と柄にもなく句を詠んでいる。月の下ならば推すか敲くかしたかもしれないが、昼下がりでお日柄はよく、月は出ていない。それでも《卯たた寝》にしようか、《兎なり》にしようか、などと考えはじめ、隣の兎の身なりを見たところ、チョッキを直に着ていることに気がついた。額にはちょこんと角が生えている。兎角亀毛のことで、好奇心にかられたアリスはつい兎に声をかけた。

「尾も白い尻尾は隠しておかないと」

アリスが自然と口にした五七五調の口調にうっとりしかけたとき、白兎まず半分眼を開けて次に大きな桃色の目を見開いて辺りをきょろきょろうかがいながら腕(前脚?)をぱたぱた羽立つかせチョッキのポッケに手(足?)を突っ込むと懐より時計を鳥出し朱鷺を鶴認し大変だ大変だ遅刻しちまうぞと立ち上がるとパタパタと跳んでいく。

兎の尻尾をつかまえようと鳥の尾を踏んだアリス、コンドルは鳥逃がらすまいと追いかける。「兎の正体は鳥だったのね。兎を一羽二羽って数えるのはおかしいと思っていたのよ。兎の正体は烏と鷺だわ」アリスは暴走する。「二兎を追うものは一兎も得ずっていうけど、一兎を追えば一石二鳥ね」

「そんなに鳥見だしたら――」姉の声は語句落丁――

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