ジョイスる国のアリス

アリスは姉とならんで川べりにすわって、なにもしないでいるのがそろそろ退屈になっていた。姉の読んでいる本を眺めてみたけれど、絵もなければ帯もない。「読んでもしようがないのに」とアリスは思った。「絵帯もしれない本なんて」

それでもアリスは姉の読んでいる本が気になって、本気になって姉の本をのぞいてみると、はじめに《川走》と書かれ、《せんそう》とよみがなが振ってある。「《川走》って言葉なんて見たことないわ」とアリスは思う。「辞書にも載っていないんじゃないかしら。《せんそう》は聞いたことがあるけれど――」

川は走っているようにみえなくもない。アリスがまだ行ったこともないずっと向こうのほうから曲がりくねりながらやってきて、目の前を通り、そしてまたずっと向こうのほうまでつづいている。(アリスは川が流れてくる方向から流れていく方向に視線を走らせた。)けれど、少なくともいまここでは、ごうごうと低い音をひびかせたり、ばしゃばしゃと岩にぶつかったりはしていない。戦ったり争ったり、戦争しているようすはない。

「――川走……川走る……せんそう……」しばらくつぶやいていると、アリスはひらめいた。「ひょっとして《川走》は、川が競走しているってことかもしれないわ。追いかけっこしているのかも。きっと長距離走ね。さっきから川はずっと走っているもの。亀さんタイプ。ゆっくりだけど休まず、ずーっと走っているのよ」

アリスは自分の出した答えに満足して姉のほうを見た。《川走》の意味が合っているかどうか、姉に確認したかったのだ。アリスが自分の考えを話すと、姉は「ねえ、ちゃんと本を読みなさい」と言った。

「お姉ちゃんと本を読んだらわかるの?」

「わかるかもしれないし、わからないかもしれない」と姉は微笑んだ。「この本はね、粘土本って呼ばれているの。粘土をこねてなにか形をつくるように、読む人が考えをこねてなにかお話をつくっていく。読む人によって読んでいるお話が違うのよ。だからアリスの話は《川走》だけ読んだ話で、合ってるとも合ってないとも言えないの。もっと先を読んだらまた違う意味になるかもしれないのよ」

「ふーん」とアリス。「お姉ちゃんは、どんなふうに読んでるの?」

「わからない言葉が多すぎて、お姉ちゃんもそんなに読みすすめてはいないけど――」(姉は、アリスが何度か本をのぞきみしている間ずっと同じページを――つまり、最初のページ――読んでいたのだ。)「そうね、最初の《川走》について言えば――」「――アリスは戦争から競争、競争を思いついて、亀さんのように川が走っていると考えたわね」

「うん、そう」

「運、送」と姉は笑った。「言葉はいろんな意味を運んでいるの。たとえば《せんそう》からね、船の倉庫の《船倉》を連想することもできるし、船の窓《船窓》も連想できる。《川走》は船が川を走っているとも考えられるのよ」

「そしたら、その船が《千艘》あって、《戦争》しているかもしれないのね!」

「そう、その調子」姉は声をはずませた。「ぐるぐると旋回して《旋走》しているかもしれない。ぐるぐると回る競争だったら《旋争》になるかも。ひとつの言葉からいろいろな意味やイメージを思い浮かべることができるの。川に、船だけじゃなくいろんなものを思い浮かべることができるのよ」

「おもしろいね。お姉ちゃん」

「おもしろいけど、難しいのよ」と姉は言った。「川遊びはおもしろいけど、あぶないときもあるの。足をすべらせたり、流されてしまったり、深みにはまって溺れたりしてしまうこともある。言葉遊びも同じ。スベったりするくらいなら笑ってすませることができるけど、深入りしすぎると溺れてしまうことがあるから気をつけてね」

「浅い考えでいいのね」

「それじゃあ《せんこう》になってしまうわ。《そう》ね、浅く想うといいかも」

「《そう》する」

アリスはきょろきょろとあたりを見渡すと、河川敷にたくさんの草が生えている。「草も《そう》と読むわね。浅草には浅草寺があるわ。戦争時の浅草寺はどんな漢字だったのかなあ――」アリスは浅い想いを巡らせた。「川が増水すると、草が水の中に潜って《潜草》になるかしら――」

そんなことをアリスが考えていると、「そう、そう。大事なことをいい忘れていたわ」と姉の声。「この本、『フィネガンズ・ウェイク』っていうんだけど、この本はもともと英語で書かれているの。いま読んでいるのは翻訳よ」

アリスは損なことを考えた気分になった。

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