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私にとっての書道

ここ最近、自室にて初めて墨を磨り筆をとった。少しまえの私からしてみれば、考えられないことだ。

書道を習い始めてから、いつの間にか15年が経っていた。ぶっちゃけて言ってしまえば書道に対する私の好感度は中の上くらいだ。ただ、今までの人生の中で色々な感情を最も教えてくれたのは間違いなく書道だろう。

芸術系、いや物事全てにいえることではあろうが、才能というのは、時に費やした時間や努力で以てしても打ち勝てない時がある。今までしょうもないことで挫折し色々なことを諦めまくっていた私だが、ある意味での1番初めの挫折は書道であったかもしれない。そう思えるくらいには、小さい時から字も筆使いもあまり良くはなかったし、“書道を習っているにも関わらず” 学校のコンクールでは入賞することができなかった。こういう劣等感を感じるような小さな経験の積み重ねが、私の最も良くない癖である“挑む前から、自分にはできないと諦める癖”がつくことに繋がってしっまったのではないかと時々思うのだが……。何にせよ今思えば本当にしょうもないことである。字が汚くったって、人より要領が悪くたってなにも死にはしないのに。

でも、だからといって別に書道が嫌いな訳ではなかった。背筋を伸ばし、気を張り詰めて、綺麗な線になるように集中する。筆を持っている時は無になれた。まあ、無になりすぎて先生にお手本をきちんと見なさいと怒られた時もあったが…。自分の中にある良いところも嫌なところも、筆を持って意識を集中させている時だけは、全てを受け入れられるような気がした。上手く書くことはできなくても、筆を持って字を書くという行為自体は昔から嫌いではなかったのかもしれない。

年齢が上がっていくにつれて、字が上手いか下手かは考えなくなった。いや、正確に言えば自分には書道の才能が無いということを素直に受け止めたのだ。ここ5年くらいは、日々の喧騒から逃れ、無を感じるためだけに書道のお稽古に行っていた気がする。もはや私にとっての書道は、字が上手くなるために行うものではなく、完全に自分が楽しむためのツールであるのだ。

何かを行うにあたって、自己の満足感より、出来ばえを重視する人がいる。他ならぬ私がその思考の持ち主だ。でもこの考え方って少し息苦しい。その物事が好きで、尚且つ上手くいくのなら良い。でも、逆に好きなことなのにも関わらず、どう頑張っても自分が想定するレベルまでいくことができないとなった時、どうするのだろうか。自己の満足感を重心に動いていれば努力は続けられるだろうが、結果だけ見ていたらきっと努力をすることが苦しくなってしまう。少なくても心が弱く、できないことだらけの私には無理だ。

長引く自粛生活の中で、勉強や読書とは違うことがしたいと思った。そこで思いついたのが、新しいことではなく週に1回はする書道だった。実は今まで家の中で筆をもったことがなかった。いざ自室にて筆をとると、先生の目が無い分とても良く集中できた。のびのびと、そしてただただ闇雲に、書きたいものを好きなだけ臨書する。お稽古で書くのとはまた違った感覚だ。

書道を始めて15年目。今までとはまた違う書道の楽しみ方ができそうだ。


#書道 #記録 #ゆたかさって何だろう #継続していること

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