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暇だったので

私は、まだ会社員なので毎日それなりにする仕事はあるけれど、それでも若い頃に比したら活動力も鈍り、そうなると余暇の時間を上手に使えなくなってきて、畢竟、土日はずっと茶の間に座り、ぼーっと口を開いて過ごす体たらく。世間では高齢化社会が進行いや浸食してきて、日本中随所で、元気な年寄りが町を埋め尽くしている。郊外の道を見よ。朝から、どや顔の老夫婦が颯爽としてウォーキングなど闊歩し、歩道を埋めている形相。郊外のマクドナルドを覗いて見よ。朝の7時ともなれば老人たちが三々五々集まっては年金集会を開いているし、時にけんかなどしている輩もいて元気いっぱい。あ、都会はどうかわからんよ。年寄りが住みづらい町のイメージがあるからね。私の住んでいる地方都市は老人天国。畑が至る所に散在していて、この季節、適当にキュウリやトマト、ナスをつくれるし、それも飽きればマックで例の集会。最近はスポーツジムにもたくさんの先輩たち。そんな彼らの世代に近づきつつある私だけれど、そこは意地を張って、スタバなどに出かけてはみるものの、若い人たちの人いきれに圧倒されてすごすごと出て来ては、ため息とともに自分の初老感を再確認するのだ。若者についていけずさりとて年寄りのように元気になれず、そっと家路につく私。

先の週末もそうだったけれど、毎週末そんなこんなで余りに暇な日を送っていると、なぜかわからないが、私は二つの「いい事」をしてしまうのだ。それが今日の本題。(枕詞が長くて、すみません。それ私の得技なんです)

ひとつには英語の勉強をしたくなってくる。
いつのことだったかな、テレビで、あるおっさんが自宅で引きこもりを何年もしていて、でもその間、当たり前だけれど、余りに暇だったので、しょうがなく英語の勉強を独学でしていたら、引きこもり卒業し、部屋を出る頃には相当の英語力が身についていた、と言う話題を取り上げていて、なるほどと感心したことがあったけれど、今の私も同じ気分。いっそ会社もやめて、引きこもりおじさん始めたら、自分の為にも家族や社会のためにもいいのかもしれないね。こんなおっさん、日本社会にとっては、うんこだからね。
そんな、うんこおじさんは、録りためた「大人の基礎英語」を鼻くそほじりながらも見始める。民放番組は基本つまらないものだという認識がああってこそ、Eテレ番組を見ようと発想することができるのであって、芸人のでているテレビ番組を面白いなと一瞬でも思ったらアウト。基本テレビはつまらないと言う前提で、それでもテレビを見ると、自然に「100分de名著」「大人の基礎英語」、時にゲストにつられて「プライムニュース」に行き着く。そういうわけです。
大人の基礎英語を見終わって、次に、買っておいたテキストを開いてはさきほどの会話を読んでみる。分からない単語は調べてみて、でも直訳ではなく会話全体としてはこんなこと言ってるのね、などと感心しながら、ちょっと勉強して見る。自分ちょっとかっこいい気もして、noteには「暇さえあれば英語の勉強しています」とでも書いておこうと決めたのだ。

さてもう一つ、暇になるとする事と言えば、自分が勝手に私淑していると決めた作家の作品を読み直すこと。
私が梶井基次郎を知ったのは高校生の頃で、「檸檬」を読んだのがきっかけだったのだけれど、その後で「城のある町にて」を読み、場面場面の情景を形容する一つ一つの言葉が絶妙に組み立てられている事に、鳥肌が立つと言う比喩が嘘ではない位、心が震えてしまったのだった。言うなれば、細い鉛筆で描かれたデッサンが白黒写真と見間違えるごとくのリアリティ溢れる様相を見せているかのような、繊細なタッチで描かれた小説で、読んでいるこちらの心がぷるぷると震えてくる。そして今、改めて、その文章をなぞるように、慌てず、ゆっくり読見直してみる。出だしがはげ頭の老人を描写する場面からなので、さすがに学校の教科書に載せるという訳にはいかなかったのだろうけれど、城跡の高台に登った時の描写なぞは驚くばかりだ。またこの「城のある町にて」では梶井にしては珍しく若い女が二人登場する。彼の姉と義兄の妹の信子だ。幼い妹を亡くしたという前提もあり、姉の子供の勝子に対する思いもたまらない愛しさをにじませている。彼女たちをみる主人公峻の柔らかく繊細な視線、視点にも注目して読みたいところだ。信子の洗濯物が夜半の雨に濡れているあたりのシーンなどは、映画にしてみたいような衝動に駆られる。
読み進めながらも、私は梶井を知った頃の自分を段々と思い出してくる。こんな美しい小説はないと確信した18歳の私は、夏休みに近くのくず屋でバイトして得たお金をすべて使って、父親の知り合いの本屋に頼み、筑摩書房の梶井基次郎全集全3巻を手に入れたのだ。ついでにその頃文通して後ほど京都と大阪でデートした、澄子ちゃんの写真と手紙を、本を取り出したあとの空になった全集の箱に入れて、こっそり大切に保管していたなども思い出す。澄子ちゃんの写真はどこかへなくしてしまったけれど、箱の中には、文通していた頃の封筒がいくつか今でも入っている。

(あ、今はもちろん梶井基次郎全集ではなくKindleで読んでます。)

今日の結論としては、オレ、初老に近い年齢になって来たけど、自分いい感じで枯れてきて、こんな自分も悪くないな、と少し頷いてニヤリとした、きわめて暇ななおっさんがここにいると言うところかな(笑)

 町を外れてまだ二里ほどの間は平坦な緑。I湾の濃い藍が、それのかなたに拡がっている。裾のぼやけた、そして全体もあまりかっきりしない入道雲が水平線の上に静かに蟠っている。――「ああ、そうですな」少し間誤つきながらそう答えた時の自分の声の後味がまだ喉や耳のあたりに残っているような気がされて、その時の自分と今の自分とが変にそぐわなかった。なんの拘りもしらないようなその老人に対する好意が頬に刻まれたまま、峻はまた先ほどの静かな展望のなかへ吸い込まれていった。――風がすこし吹いて、午後であった。