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「寺のある町にて」を・・・

梶井基次郎「城のある町にて」

高校生の頃、恥ずかしながら(笑)「文芸班(部活)」に入部して、それから今日まで私が読んだ幾多の小説の中で「これが一番」を推挙せよと指示されれば、即答で、しかもかなりの大声で、この「城のある町にて」を推すのである。筑摩書房版の全集も持っているが、今は電子書籍で屡々(しばしば)読み直している。読むその度ごとに、音読した一字一句を、自分の僅かな脳の、そのまた僅かな記憶素子に、彫刻刀で刻み込むが如く読み進めるのである。
一方で、後世の文学少年少女たちに「梶井基次郎」の名を知らしめた作品「檸檬」は、どうしたものか自分の中ではあまり感動がない。鬱屈した生活と心模様を京都の町を舞台に披瀝したいのだろうが、彼我それぞれの生活や風景描写よりも自分の心を描くことに専念しすぎていて、どうもいけ好かないのである。
この「城のある町にて」は六個のセンテンスに別れているが、そうしてどのセンテンスももちろん好きなのだが、特に最後の章、「雨」が特に気に入っている。優しくも研ぎ澄まされた視線を以て、晩夏の夜を見つめる主人公の様子が「詩美」として示されていて、まったくもって夢中になってしまう所以なのだ。

恋人に贈るもの

私はこんなことも考えている。
私には人目を避けて付き合っている秘密の恋人がいる。
彼女は若い。
一方で私は老いている。
だから、きっといつの日か、私たち二人には「別れ」と言う時が来るのだろう。
その別れの日に、私はこうしようと妄想する。
梶井の美しい文を模倣した、でも「檸檬」にある自分の感情に惑溺したものではなく、この「城のある町にて」に描かれているような、目前の町の風景や日々の些事、ひいては優しい人たちが暮らすそのなかに、そっと一人の女(それは私の恋人なのだけれど)を忍び込ませた、叙情的な短い小説を作る。そうしてそれを原稿用紙に万年筆で写し取って「はい、これ」って言いながら、別れ際の悲しい顔をした彼女に渡したらどうか。
そんな寂しい妄想ばかりをしている。

夕方、退社しての帰り道。急速に暗みを増す町を抜けて、この町を象徴させている大きな寺の前にでた。そうして恋人の優しい笑顔を思い出しながら、家へと向かう私の心は、近いうちに訪れるであろう恋人との別れの不安でいっぱいになり、何だか切なくなってきている。
するとこの「城のある町にて」の「昼と夜」という章に出てくる、あるフレーズが浮かんできて、歩きながらこっそり呟いてみては、なぜかまた恋人を想ってしまい、余計にせつなくなってくる、そんな秋の夕暮れなのである。

かあかあからすが鳴いてゆく、
お寺の屋根へ、お宮の森へ、
かあかあからすが鳴いてゆく。

(略)
そんな国定教科書風な感傷のなかに、彼は彼の営むべき生活が示唆されたような気がした。

(写真は、BS で再放送中の「澪つくし」に登場していた桜田淳子!可愛い!大好き!)