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女の気持ちが分からない

子供長靴

前回の記事に書いた、補助輪付き自転車に乗る男の子とその母親。
実は今朝も見かけたのだ。
「ああ、かわいい。かわいいな。あ、長靴はいてるぞ。黄色い長靴。夏にか?うん。でもいい、かわいいぞ、あ、お母さん自転車押しながら早歩きしている」
その子が可愛くて堪らずに、そんな事を車の中で呟いてみると、しばらく会っていない僕の孫の顔がダブったりして、あれれ目にゴミが入ったのか、なにかしらまた目にうっすら涙が溜まってくるのである。
なぜなのか。私はもう老人だからなのだろうか。老人だから、老人になると、小さな子供を見ただけでその可愛さ、あどけなさに、涙がわいてくるのだろうか。
さて、なべて田舎の子供たちは、みんな長靴が大好きだ。秋、冬、春、と3シーズンと履いている。冬など子供達みんなが履いている。就学児童は「スノトレ」なんか履いたりするけど、ちびちゃん達はみんな長靴を履く。一方で都会に暮らす僕の孫は、ほとんど履かないらしい。私の家に帰省した冬に、近くの西松屋で一回買ってあげて、その年の誕生日にまた消防車柄のを買ってあげたけど、どうもあまり気に入らないようだ。都会の子供達は、あまり履いてないのではないだろうか。孫の母である私の娘は、自分が履いていたのも忘れてしまって、すっかり都会人のふりしてんじゃあねえか、おい!長靴、とっても可愛いのに!
あの、小さな長靴こそが田舎の子供たちが可愛い所以なのである、と信じている。

女の気持ち

話は大きく変わる。
(だって、人の頭の中っていろんな事で一杯だからね。こうして僕も可愛い子供のこと考えた10秒後には女の本音ってやつを探ってニヤニヤしているのね。)

毎夜毎夜、つれづれなるままにnoteを、特に女性の書いた記事を読むのが好きだ。読み続けていると、なんだか「女の気持ち」「女の本音」といったものを知ることができる、ような気がしてきた今日この頃。
noteに登場している女たちは、皆なべて文章力に長けているのがひとつ。日頃使っている「話し言葉」を「書き言葉」に巧みに混合させて、語尾つく「わ」「よ」「ね」などの女言葉もとりいれながら、上手に自分の気持ちを吐露させている。実生活のなかで求められている「女らしさ」という箍(たが)が、ここでは「匿名」が担保されているからなのだろうか、箍が少し外れて、みな「本当の本当」を書いてくれている、ような気がするのだ。
読んでいると、そんな最近の「note婦人会」と言ったくくりの俎上に乗る、自らについて話す女子たちの、最近の論点、といったものが、おっさんの僕にも、うっすらとながら見えてきた気がするのだ。
彼女たちの議論の大きなテーマは、全ての女子が鼻の穴を膨らませて語っている「恋愛」と「あれ」に集中している。そうしてその議論になる時に挙げられる対象の女、つまりは自分たちを、ふたつに分類して分析しているような気がしてきたのである。女は自らのカテゴライズが好きなのかもしれない。
ひとつには「面倒くさい女」論。もうひとつには「都合のいい女」論。
ここで彼女たちの記事の出所を引用などしないけれど、恋する乙女たちやエッチが好きな乙女たちの書く記事の論点は、どうもその双手に絞られていそうな気がしてならない。
メンヘラ?ヤ○マン?めんどくさい女でも困るし、都合のいい女でも軽そうだし、この二つの言葉は、どちらも後ろ向きな単語なのだけれど、なおかつ対語であるかのようにも思えて可笑しい。普通の女はどこにもいないような気もしてきて、いずれにせよ男の僕には分からない議題である。noteを隅から隅まで読んだわけではないが、そもそも恋愛について滾々と(滾々、水が湧き出すように)語る男たちは少ないような気がする。
「女は、口説かれて(相手を)好きになる」「女は共感し合う生き物だ」
「女子は「共感」と「共有」を求めています」
でも、どうでもいいんだけど、女って、何なん?
「女って○○」とか「あたしは○○な女」
とか、何で自分を決めたがる?
結局は、女ってなんだかよくわからん!うまく書けないけれど。

まあ、私の師匠、太宰治でさえ、読者の女から日記を入手できなければ彼の最初のヒット作「女生徒」も、太田静子から日記を借りなければあの「斜陽」も書けなかった訳だからね・・・