津軽 4 金木
「太宰治」は無論のこと、「三鷹」「金木」「斜陽館」「弘前」「五所川原」などをネットで検索してみると、太宰に由来するサイト、紐付けされたページなどが実に多く登場してくる。このnoteで太宰治にまつわる記事数においても然り。それらの数を他の作家と比較したわけではないけど、おそらくは群を抜くその多さに、ネット社会になっても、時代を超越した太宰治の強い底力に、いつもながら、なるほどと感心ししまうのである。そうして私ごときも、時には、太宰のこと一番知っているのはオレさまなんだぞ、と少しだけど見えぬファンたちに嫉妬したり、また時には、青春の書と謂われる太宰文学から、老いぼれじじいになっても未だ卒業できていない自分が、何だかちょっと恥ずかしくもなってしまっている。
しかしながら、開いた太宰関連サイトの中では、団体や学者のみならず、詳密な調査研究をしている、知見の高い先輩が、市井に大勢おられて、すると自称「太宰治研究者」たる私は、頭をポリポリと掻きながら、背中にくくりつけてみた幟を下ろしつつ、、自分の知ったかぶりの自惚れに赤面してしまう。いよいよ太宰研究所の看板をおろそうかしらんなどど、少し考え込んでしまった。みんな、よく勉強している、良く研究している。たいしたもんだ。感心。
なので、ここでは研究者を気取ったような通り一遍の説明ではなく、太宰治の生家を実際にこの目で見て、その時思った私の気持ちといったものを中心にして書いていこうと思う。
私が驚愕したのは、まずこの外塀である。屋敷を囲むこのこの煉瓦塀は高さ4メートルとある。蔵やぶりの泥棒やら、小作人たちの実力行使を避ける、警備上の理由からなのだろうが、まるで明治時代の紡績工場跡地に来たようだ。この塀の威厳に驚き、そしてその中程に鎮座する母屋、屋敷のでかさに圧倒されてしまった。なるほど、後半生の太宰が家(居宅)や生活にほとんど無頓着で感心がなかったのも、この家で出生し成長した事への、ある種の反目からと言う一面があったのかもと察するに難くない。そして昭和23年に津島家が手放すまでは、個人の住居だったのだという事実に圧倒された。見出し写真は入り口入ってすぐの土間から座敷を見たところ。土間の奥行きだけで20メートル以上はあり、座敷では障子や襖を外して運動会ができる!
ここは文庫蔵の入り口である。「津軽」のクライマックスで、子守だったたけとの再会では、たけは、太宰と歩きながら八重桜の花をむしって投げた後、彼に向かい、堰を切ったように能弁になって、話し始めるのだ。
私はこの文を読みながら、そっと目をつぶる。
すると自分がたけになっていて、はしゃぎまわる太宰が、私の5才になる孫に置き換わってくるのだ。太宰の小説の特徴は、場面場面で、こうして読んでいる自分や家族が、小説の中の人物と入れ替わる事が容易にできる所にあると思う。
私もまたいずれ、大きくなった孫をみて「あの頃は、めごくてのう」と、だけのように、目を細めて喜ぶのだろうか。そんな事など考え始めた。
2階より踊り場を見ている。1階の和風と打って変わって2階への階段から上は洋風の作りになっている。その2階には、いくつもの和室が作られ、家族の居室になっている。
1階の座敷を見て思い出す。実は私の母(育ての母)の実家も「ど」のつく田舎であるが、その生家は製綿会社を経営しており、昭和の時代は布団はすべて綿布団だったから、そこそこのお金持ちだったようだ。そうして斜陽館ほどではないが、広い地所と綿工場、畜舎、それと大きな屋敷を持っていた。私が小さかった頃、母に連れられて盆や正月に行くと、奥の大きな座敷に座卓をならべ親戚一同が宴を催していた。子供の私なぞ、その縁にも入れさせてもらえず、子供たちはみな、お勝手の座卓を囲んで食べた、そんな怖ろしい大人の世界だったとの記憶がある。戦前の津島家の所帯の大きさは、こうして私の母の実家と比較してみると、その規模の違いに実感として驚かされてしまう。太宰の生家での生活のようすは、太宰の奥様、津島美知子「回想の太宰治」に詳細に書かれていて、以前、興味深く読んだ。
ここで「津軽」のなかで金木の生家について太宰が書いた印象を引用してみよう。本音を吐露している重要な一節だと思う。