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自分が、何をしているのかが、わからない。

最近の読書から

最近また太宰治文学を勉強しはじめた。
今読んでいる「太宰治ブームの系譜、(滝口明祥)」の文頭で、おもしろいエピソードを発見したので紹介したい。
太平洋戦争中、戦時体制という時局に鑑み、国民感情が右へ右へと滔々(とうとう)と流れる中で、作家達がほとんど作品を書いていなかったときにあって、太宰は旺盛な執筆活動を行っていた数少ない存在で、当時の一部青年読者達に人気を博していた、という話である。
当時、1940年代前半の太宰の作品は、なべて戦時社会の面影が薄いどころか、却って青年読者には、体制に対する「ある種の芸術的反抗」と受け取られていたようだ。1938年の「女生徒」ですら当時からすると反時代性を持っていたとのことで、時代背景が加味されると否とでは作品の重みも違って見える。吉本隆明、武田泰淳、竹内好など、その頃の太宰が多産していた作品を読んでいた青年達が一部にいて、後に口を揃えて述べていることに、今更ながらなるほどと、感心してしまった。
戦局も傾いてきた頃に執筆された「津軽」や、敗戦直後の「お伽草紙」などを、太宰の大傑作と感嘆し公言はばからない私を、この話は大層喜ばせたのである。

人は恋をするからやっかいだ。

私は、15才年下の女の人を好きになってしまった。
これはちょっと自分にはショッキングな出来事だった。頭がまるで空転してしまって何をやっているのかも分からない。ただ自分が「初恋中の男子中学一年生」だと言う認識はある、困ったおっさんだと言うこと。
思うのだが、人は好きな人が欲しいから、彼女が欲しいから好きになるのではなくて、不意に、いきなり、突然に、好きになってしまうのだという事。このおっさんの私がまさか恋をするとは、今の今まであり得ないと思っていたことで、これはやっかいなことなのである。
 詩人、金子光晴翁の宣った(のたまった)一文を、ここnoteで過去何回か引用したが、またも再掲する。何故なら今の私の心と言ったものを端的に表した一文だからだ。

「悲劇の本質は、消耗品である人間の肉体が、がたたがたして替えがきかないのに、精神だけが、それについてゆけずに、いつまでも青いと言う事である。」(「じぶんというもの」より)

書いた当時の翁の年齢までは行かないものの、私とてこの体はすでに老いの手前に来ている。いや初老という言い方が正しい。足腰も痛い。ところが体とは別に、自分の心の持ちようと言ったものは、時間による醸成と言ったものがまるでなく、恥ずかしいかな若いときのままなのである、目前の事象に対峙する時の判断基準、思考方法が、何らの経験値も加味されておらず、中学生そのままなのである。金子翁にはお見通しなのだ。

こんな夢を見た。

眠れなかった夜の代償として、意識が朦朧となった、早暁の時間。私はこんな夢を見た。いいや、夢うつつとしてはいたが、実はこんな勝手な夢を作っていた、と言っていい。
私が32才の時に死んでしまった、先の妻が、とある部屋で、誰なのだろうか、ひとりの女に向かって話をしている。喫茶店?自宅の居間?教室?どこだろう。そうして話している相手は一体誰なのだろう。この夢の中では曖昧模糊としていて判別がつかない。話している女も、その相手も、実は先妻ひとりなのかも知れない。その景色のなかでは、私は天井に張り付いていて、そこからこの二人を見下ろしている。きほどから妻は吶吶と相手の女にお願いしているようだ。
「あたしのダンナは気が小さいの知ってる?すぐに泣くし、うじうじめそめそとするし、いつも後ろ向きに考え込んじゃうんだ。あんたの前でもそうでしょ。気が弱いみっともない男なんです。」
「でも、あたしのダンナ、ずっとひとりぼっちなんだ。ずっと、だよ、あたしが死んでからずっとひとりぼっち。だから少しの間、あいつに優しくしてあげてくれないかな、少しだけ、ねっ!ちょっとだけ優しくしてあげてください 」
暗い部屋で、妻が誰かに説得している風景。相手の女、それも妻、は先ほどからしきりに首を縦に振り、頷いている。少し納得したのか、そうして先妻は、やおら天井に張り付いている私を見上げて、
「あんた、しっかりしてよ、意気地無し!」と笑って話しかける。天井に張り付いて、私はプルプルと体を震わせながらポロポロと涙を流す。
そこでやおら夢は終わり、意識の戻った私は、今度は天井ではなく寝床の中でまためそめそする。人生のまとめの時期に入っている、この初老の男が、だ。こんな甘い稚拙な夢をみて、布団の中、おいおいと声を出して泣いてしまったのだ。
文頭、疑問がふたつあると書いたが、実はもうひとつあった。自分が、何をしているのかが、皆目分からないのだ。こんな都合のいい夢は、半分寝ぼけた私の、極めて恣意的な作為によるものなので、つまり、私は夢の中にまで自分勝手な、めそめそしい自分を後追いで肯定する、小心者の愚劣漢なのである。

「人間、生き長らえれば、恥、多し!」
人間、生き長らえれば、ひとりぼっち。我が助けは何処よりきたるや。