津軽 1 追体験の旅
妻「ねえ、なぜ旅に出るの?」
私「寂しいからさ」(太宰の原文は、苦しいからさ、です)
1,声が出ない
声が出ない、のである。正確には、声帯が上手に震えてくれなくて、声がかすれ、何言ってるか自分にもさっぱり聞き取れないのである。自分が言いたい事はあらかじめ頭の中で出来ているので、自分が発している声を、都度いちいち聞き取っている訳ではないが、かすれて裏がえって聞こえる自分の声は、確かに何言ってるか分からんのだ。
私は今、休暇を頂いている。5月の半ばから今月6月の末までだ。この間、妻と多少の会話をしたり、店先で店員との一言二言交わす言葉以外は、誰とも話をしていない。この間の長い休暇で、あまり人と話す機会がなくなってくると、つまり声帯を振動させない期間が長いと、畢竟、声帯が怠けてしまい声がかすれてくる。
そもそも実際に会って話すと分かってもらえるのだけれど、妻曰わくだが、私の声は、サッカーの本田圭佑を更にもう半分裏返っていて(何それ?)、非常に聞きづらいそうだ。まあ「変な声」に尽きるらしい。
一方で、私は男なので、余計なことは話さない、寡黙が一番という、天からの諭しなのだと、前向きに考えてはいても、スマホの動画に割りこんだ自分の声を聞く時など、確かに「ひでえダミ声だ」と納得してしまうこと屡々。
なおかつこうして長期休暇なのだ。可愛い店員さんを見にスタバに行っても、聞きづらい今のこの声に、なおかつマスク越しに店員に話すものだから「は?」と聞かれてしまい、意気消沈、改めて自らの声に辟易としてしまうま。
「おれ、男だからおしゃべりしないよ」そう自分を慰めているのだけれど。
2,唯ぼんやりとした不安
芥川龍之介をパクっている訳ではないが「唯(ただ)ぼんやりとした不安」が、最近の私の脳と身体をいっぱいにしてしまっている。せっかくの長期休暇なのに、何も前向きに考えられない。逆説的に言えば、無気力で心がいっぱい。
読みかけの本を開き2,3分読む真似をしてみても、気持ちが入らない。そうだとばかり思い立ったように、しなくてもいい洗濯や掃除機かけてみたり、いや、やめとこう、だるいしと、ベッドに横になり、面白くでもないエロ動画見て、そのうち昼寝してみたり。するとおなかが空いているなと思い、そうだ、パンを食べよう、袋から出してはみるが、このあと、トースターで焼き、マーガリンを塗り、私の場合あんこを乗せるという手順を考えると、する事の多さにやっぱり要らないや、となってしまうのだ。
一日のすべてがこんな調子なのだ。
無気力な毎日が続いている。
以前の私なら、いつたりとも、何をしているつけ、生きている意味を自分に問いがちな性分で、それが見つからないときのエスケープとして「読書=勉強」しているようなものだけど、比して今回の休暇で起こっている、このだるさは一体どうしたというのだろうか。いや、こんな無気力が自分を押さえつけているそれを気にしなければ、痴呆老人としてそれまでなのに、無気力さを分析し始めて「おれ、とうとう鬱になったのかな、初老性鬱?」などと考え込んでいる自分も俯瞰できている。心がからっぼなのではなくて無気力が心を満たしていて、悩んでいる自分がわかると言うのが真実。
3、斜陽館
そんな中で今年も桜桃忌がきた。太宰治生誕112年。
私には、生きているうちに行ってみたい場所が、ふたつある。
ひとつは、梶井基次郎「城のある町にて」の舞台、伊勢松阪に、それも夏の終わりに行って城跡に登ってみたい。
それと、ここだ。
津軽、青森県五所川原市金木にある太宰治の生家「斜陽館」。
太宰小説の中では私個人としてはあまり好きではない「斜陽」と言う名が付された館ではあるけれど、それはそれ、後半生を通して「家」に何らの固執もなかった太宰の、比較とされる豪邸生家とやらを見てみたいのである。それと、たけが連れて行ってくれた近くのお寺。
私は、めそめそとしながらも自堕落で飽食に明け暮れている、今の自分の無気力を払拭するため、重い腰を上げ、津軽へ向け旅に出ることにした。訳あって早めにファイザーワクチン2回接種を終えたのも、偶然ではあるが、安心という意味で幸いしている。
見出し写真は、妻が口中で結んだ桜桃(さくらんぼ)のヘタ。昭和世代の妻の自慢らしい。