見出し画像

多くの「良心的教育者」とってさえ体罰は「快楽」だったのかも知れない

吉村萬一『哲学の蠅』(創元社)は「まだ終わらないでくれ」と読中最後まで思わせてくれためずらしい本だ。私小説でもあり教養小説でもあり読書録でもあり懺悔録でもあり創作論あるいは文学論でもあるというヌエ的書物で、ハートウォーミングや感動や謎解きや人生応援なんてものを「売り」にした「安易で心地のいい」書物が粗製乱造されがちな昨今の出版界にあって、滋味豊かな毒を含んでいる。私は好きだ。
とくに幼少期に母親から受けた体罰について回想するくだりで、彼女は「しつけ」という名目で自分を叩いたりしたながらかなりの依存的快楽を味わっていたのではないか、と深刻ぶらずに考察するあたりに「凄み」を感じる。これは誰もがきょくりょく否定したい人間的闇領域に触れるものであり、そうした暗部にノコノコ踏み込める著者の「聖域なき文学的勇気」にはいちおう感嘆しておきたい。理由も無く犬を放り投げては深刻な怪我を負わすなんていう、いまであれば明らかな動物虐待行為をあえて「自伝的作品」で書くあたり、著者には「露出的な告白衝動」があるに違いない。この脱ぎっぷりのよさはなかなか余人には真似しがたいだろう。フルチン主義(フルチ二ズム)を理想とする私としては彼の爪の垢を煎じたものは飲んでおかねばなりません。ちなみにこれを書いている今は午前中なのに暑く、だからフルチンです。

そういえば、体罰を「進歩を目的とした有形力の行使」なんて鹿爪らしく定義しその必要性を頑なに説き続けるヨットスクールの校長がいましたけど、あの人もまた聞き分けのない生徒を殴っている最中など一種言い知れぬ快楽を得ていたのだろう。脳内麻薬放出しまくりだったのだろう。それで、「こんな快楽をもたらす以上、体罰は善である」と感じ入り、「なんとしてもこれを正当化しなければならぬ」とめちゃくちゃな方向に突っ走ったのだ。そうじゃなければ、青年の問題行動は脳幹の機能低下によるものだとかいうあんなエセ科学にあそこまで固執しないだろう(勿論そこに何らかのエビデンスがもしあったとしても「他者への暴力行使」を肯定していい理由にはならない)。
むかしの熱血教師の体罰には愛があったなんていうタワゴトを真に受けたがる無邪気な人達からすれば、「体罰は人を酔わせる」なんて聞くと耳が汚れたような心持ちになるのでしょうけど。
さくじつ島沢優子の『スポーツ毒親』(文藝春秋)を読みながら思ったのは、「教育熱心な人たち」は大なり小なり子供を「もう一人の自分」として扱っているということだ。あたかも子供を自分の人生の敗者復活戦のように捉えている。そんな健気だが毒々しい情熱につき合わされている子供が「これは虐待だ」と気付くころにはもう心身共にすっかり疲弊して病んでいる。こんな不条理あるかい。これは受験でもほぼ同じことが言える。

だいたい頼まれてもいないのに当たり前のように「子供という他者」を発生させるというだけでも十分やばい「暴力」なのに、さらに「教育」と称してその子供に有形無形の「暴力」をふるうなんておぞましい話です。誰もは一度は考えたことがあるに違いないけど、子作り以上の「暴力」など存在しない。この「大きすぎる暴力」の一番の問題点は、ほとんどの行使者に「それが暴力であるという自覚」が無いことにある。この「自覚」がどれだけ「反自然」的あるいは「それを言っちゃあおしまいよ」的に思われようとも、この自覚をほとんど持たないような人間と私は心穏やかに付き合うことは出来ない。どうしても嫌悪感情を抑えることが出来ない。子供という他者を「自己の延長」として支配的に見ている人間が嫌いなのだ。
「痛み」を感じることの出来る生物は「世代生産」を「忌避すべき」だった、と今の私はつくづく思う。そうした「倫理的決断」をだらだらと先延ばしにした結果が、今の地球なのだ。「汚らわしい猿」が八十億人近くひしめいているこの地球なのだ。こんなこと実はだいたい誰もが勘付いているだろう。眼前の人間どもを眺めながら「存在論的なムカつき」を覚えたことがあるだろう。
どうしましょうか。そんな救いがたいクズ猿どもと「共生」するための知恵をこれから磨いていかねばならないね。もちろん私もクズ猿の一人なんだけど。だから誰かに対して面と向かっては罵りませんよ。ときどきこういうかたちで憎悪の言葉を吐き散らかすだけです。みんな違ってみんなクズなのです。だから特定他者を攻撃的に排斥してはいけない。

それにしても隣室の無神経ジジイの出すアクビ声への嫌悪感情がまだ減じない。なんでそんな野太い音をわざわざ発生させるんだよ。老齢になると声帯の振動を制御しにくくなるのかね。
この頃では、咳払い、くしゃみなど、人間の口から出る音が生理的に気持ち悪くてどうしようもない。とくに自分の部屋でそんな音を聞きたくない。許可なく侵入してくんなカス死ねと怒鳴なってしまう。いったいこれまでどれだけの「騒音主」を絞殺もしくは撲殺してきただろう(脳内で)。このミソフォニアは根治可能なのだろうか。あるいはそのまえに重度の人間嫌悪症と向き合うべきなのしら。

それじゃあまた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?