雑筆 フェイスブックの話とか

こんにちは、世界のクミハチです。

いまは割合、気分がいいです。起床リズムが荒んでいて散歩不足の不満はあるけれど。オナニーして糞するばかりのリア充生活を相変わらず満喫しております。だるかったのと「身辺多忙」のせいでかなり間隔が空きました。例のウイルス騒動とは全く無関係です。むしろ僕などは幼子のごとく純心なのでもっと感染拡大して世界が滅茶苦茶になって何かユニークな世界政府でも樹立されれば面白いのにと夢想していました。糞みたいな人類が美辞麗句を垂れ流してノソノソしている様子にもう耐えられませんね。みんなで困難を乗り越えようとか悪趣味な掛け声は勘弁してくださいよ。みんな、という言葉の無神経さに、「みんな」は何も感じなくなっている。

いずれにせよまたかなりの間隔が空くと思います。いちおう生きているということを証明するために短いですが何かを書き残しておきます。こんな悪文でもいつも読んでくれている方があれば心よりお礼申し上げます。なんだかすみません。

フェイスブック(Facebook)という、あの原則実名登録制のSNSについて何か書きてみたい。といっても僕は、「実世界の人間関係」を基にしたフェイスブック利用には少しも関心がない。日本人同士が「幸せアピール合戦」を繰り広げる馴れ合い空間としてのフェイスブックに至っては、豚に食われろと感じるし糞にも劣ると思う(豚も食わねえか)。「じぶんめっちゃ楽しい人生送ってます!」「俺はこんなに楽しい仲間たちに愛されてます!」「わたしにはこんなに愛すべき家族がいます!」と言い切れる自信のない人、あるいはそうした下品で痴呆丸出しな「幸福自慢」に手を染めたくない人は、そういう危険領域にはいっさい近寄らないことです。どうでもいいクソガキの退屈極まる成長写真とか見せられて、たぶん疲れるだけだから。自分たちの幸せ写真をばらまいてやたら共有したがる奴らはみんな承認欲求の怪物です(ここでもの書いてる奴らだって例外じゃないぜ。要は品の問題なんだ)みんながみんな重度の「いいね」中毒患者なんだよ。自分が嬉しい気分でいるときはみんなも嬉しい気分でいるに違いないと思えるガキと同じなんだ。もちろんガキにはガキのオモチャがあっていいいのだけど。

そういう慣れ合いの小児的利用法とは違った、刺激的でアンチ日常的な利用法がある。何よりそれは、「見ず知らずの他者」とコンタクトを取ることから始まる。国も違えば言語も違う「他者」。年齢から思想、信仰まで全てにおいて全く違う「他者」との間に「跨ぎ越せぬ溝」を感じ取れる経験をフェイスブックは与えてくれる。世界中に物凄い数のユーザーがいるから。したがって中にはかなり怪しくかなり「危険」なユーザーも相当数いるわけだ。いちおう「実名」でやりとりしているわけだから、「応答主体」としての「責任」はある程度引き受けなければならない。ある程度の「緊張」が生まれるのはその為だ。日本人同士であれば、かりに初対面であっても、そこまで高い異質感を感じない。高い「文化的垣根」を仰ぐことはない。「分かるでしょ、あれだよあれ」式の甘えがそれなりに通用する。しかるに母語が違うものの間では何かにつけて心許ないのだ。相手に「誤解」されること恐れたり、また逆に自分のほうで「誤解」してやや気分を害したり、最初はのべつ細心の配慮の連続でひどく疲れる。多少親しくなっても、「異文化人」にあってはどこに地雷があるのか分からない。そうした「緊張」がいかにも非日常、新鮮で困難で、楽しいのだ。それに、日本以外に住んでいる見ず知らずの人に絡んで、現地の風俗なり政治なり思想宗教なりの話を聞き出すのは、いい学問になる。直接聞いた話というのは二次情報ではなくて一次情報だから、なにぶん鮮度が高い。「不正確」なものも含めて活きた価値がある。話のタネにはもってこいだ。とくに僕の様に金がなくてしかも出不精な者にとって、そういう情報はありがたい。

フェイスブックの利用者は、補助言語としての英語くらいは多少使える。「共通語」としての英語はこういうときに便利だ(残念ながらエスペラント語使用者に出会ったことはない)。もとより最近では自動翻訳の質もかなり向上したし、チャットのやりとりであれば文案を練る余裕もあるので、素人英語全開でも恥ずかしくはない。僕などいくら文法や綴りを間違えても「だからどうした」という気でいられる。ともすれば日本人は「英語が下手ですみません(I'm sorry, my English isn't so good)」という負い目を強く持ちすぎる。現にこうした「謝罪文」は検索するとすぐに出てくる。かくいう僕だって昔はよく使った。でもだんだん大胆になった。いまでは「母国語ではないのだから下手で当然だろう、文句あるか」と開き直っている。いつかある瞬間に、そもそもネイティブスピーカーでもない自分がなんでここまで下手に出る必要があるんだ、と思ってひどく腹が立ったのだ。これ分かりますか。日本人が英語を使う際によく見られるこうした低姿勢の背景には、多分に文化的なものがありそうだから、興味がある人は研究して欲しい。明治以来の「欧米」への憧れとか、劣等感とか、そんなものが深く関係している気がする。

井筒俊彦という碩学の影響で、当時の僕は、コーランとか古典アラビア語に高い関心があった。それでアラビア語らしいものが見当たるプロフィールをひとつ選んで、「日本語」でメッセージを送った(フェイスブックでは基本的に誰にでもメッセージを送れる)。内容はおおむね「イスラームについて勉強したいので、何か教えてほしい」というものだった。どうかしている。でもこういう大胆さは得てして面白い結果につながるものなのだ。数か月後に返信が来た。「親切」な人だ。翻訳にはそれなりの苦労があったと思う。彼はシリアの首都ダマスカスの現役大学生で、だから知的レベルも高く、よろず何でも聞いてくれと言わんばかりだった。はじめは「自己紹介」のような、他愛のないやりとりに終始していたのだけど、次第に彼は相当熱心にそして頻繁にメッセージをくれるようになった。この日本人の「友」の為に出来ることは何でもやろう、という老婆心全開の意気込みがそこにあった。東京でこんど講演会があるから出席してはどうか、とウェブ情報を次々教えてくれたり、京都の大学にこんな優秀な日本人ムスリムがいるので相談してみてはどうか、と頼んでもいないのに「友達紹介」をしてきたり、その余りの積極性に閉口することも少なくなかったけれど、ある意味、その一連の「善意」は僕に様々なことを教えた。

あくまで推測だけど、イスラム教徒の当事者にとって、僕のような非イスラム教徒は「異教徒」であり、それはきっと「改めるべき間違った状態」として映るのだ。小島剛一『トルコのもう一つの顔』(中公新書)のなかには、言語学者である著者のトルコ経験が克明に綴られているが、とくに、著者がイスラム教徒ではないことを知った老婆が「今からでも遅くない」と本気になって憐れんでくれたという話が記憶に残っている。「信仰」とはそれくらい切実なものであり、それゆえしばしば暴力的なまでに「お節介」なものにもなりうるのだ。つまり何がいいたいかというと、そのシリア人の学生は僕をイスラム教徒にする為あらゆる努力をしていたのだということだ。ムスリムの義務であるとされる「ジハード」とは本来「努力」という意味であり、その言葉は今日なぜか暴力的な意味合いを帯びたまま一人歩きしているけれど、それは大いなる「偏見」であって、不勉強な通俗マスメディアによって再生産される「イスラム過激派」のイメージをただ無批判に踏襲しているに過ぎない。「異教徒」である一人の日本人の為に万事を尽くすようなことこそ、「ジハード」なのではないか。すくなくとも僕はそう直感した。そうでなければ、彼のあの熱心さを説明することが出来ない。

僕は「禅者」でついでに「ニヒリスト」でもあるかたついにムスリムにはならなかったけれど、顔さえ知らない彼とは、今でもときどき「安否確認」もやる(というのも僕はいわゆるアクティブユーザーではなく、普段ほとんどログインしないからだ。彼は去年、秋に恒例の台風によって日本全体が滅茶苦茶になったと思い込んだらしい。一体日本はどんなに小さくて、そもそもどんな報道に接したんだ)。イスラム教への関心や「親しみ」も依然として強い。なぜ「親しみ」を覚えるかというと、たまたま僕がこれまで関係してきたイスラム教徒がみな親切だったからだ。どんなに偉い学者でも気軽に返事をくれたりする。個人的に接触した信仰者の印象は、その「宗教」への印象形成において実に無視できない。つくづくそう思う。

どうもありがとう。またお会いしましょう。

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