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怒りとビビり

いったい世の有象無象どもが心を活性化させる動機の最たるものは、怒りの情動ではないだろうか。あらゆる書き物ジャンルのなかでも弾劾文くらい書いていて気持ちのいいものはない。「朝まで生テレビ」が一番盛り上がるのも演者が不意に激昂して放送事故っぽくなってしまったときだ。怒りを忘れてしまった人間にいったい何が作れるだろう。なにが主張できるだろう。私が思うに、意識のある存在者には全て本源的不満とでもいうべきものが内在していて、普通これを生活上遭遇する様々な場面で小出しに発露させている。自覚のあるなしにかかわらず人には、「いい加減にしろ」と大絶叫したい欲望が抜きがたく潜んでいる。政治システムでも財界でも天気でも恋人でも親でも何でもいいから不満の捌け口を見つけだして、「このイライラの原因はお前だ」と叫んでしまいたいのだ。この怒り爆発の声が最も大きい人間が反政府勢力の首領や革命家になり、そうした声をもっと精妙に使い分けられる人間が思想家とか詩人になる。その他大多数のタマ無しヘタレ人間は心ではいくら毒づいていても、肉声を全活用して叫ぶことはしない。安い居酒屋でくだを巻くのがせいぜいのところなのだ。

人の怒っているときの顔は異様にハツラツとしている。廃棄物のロケット処分技術が確立されれば真っ先に宇宙行き確定のクレーマー型暴走老人でさえ怒っているときはいかにも気持ちがよさそうに見える。怒りが主要快楽の一種であることは誰も否定できないだろう(そういえばおとついブックオフの買取り窓口で怒鳴り散らしている中年男を目撃した。口うるさい貧乏人の相手をしなければならないからあそこの仕事も大変です)。

私が人と話していて最もストレスを感じる瞬間は、自分の渾身の怒り談話がムーディー勝山式に右から左へと簡単に受け流されたときだ。だいたい人がわざわざ他人に話をするのは同感が得たいからです。女の場合はその千倍くらい同感が好きなのだろうが、男もやはり「まじで分かる―」と言ってもらうのが好きなのだ。これがジェンダーステレオタイプの一種でありうることは分かっているけど、飲食店なんかでの女同士の会話を聞いているとやはり「そうだよねー」という相槌が圧倒的に多いように思う(それはそれでイライラさせられるんだけどね)。

いっぽう、上下関係や仕事関係でもない限り、男の聞き手はそうやすやすとは同感したがらない。同感したら負けだという暗黙ルールでもあるのだろうか。内心ではおおむね賛成でもとりあえず反論してみて、より「高次な議論」へ誘導させたがるきらいがある。なまじ学問のある男は抽象論が大好きだ。なぜそう言えるかというと私がまさにそうだし、私の周りにもそういう男が多いからだ。私は自分からはあまり同感したくないくせに、他人にはやたらそれを求める。そう、糞野郎の典型だ。しかし糞野郎というのは多分に自覚的なのだ。病識はちゃんとある。「我を通す」ということが社交上どれくらい嫌われることかもある程度わかっている。ただそれを「治す」くらいなら他人に嫌われてもいいと開き直っている。すくなくとも開き直っているように振る舞っている。「その程度の欠点」で私を嫌いになる人間とは遅かれ早かれ決別するに違いないと確信しているからだ。それゆえこっちが折れるか向こうが折れるかの決闘的事態は日常茶飯事なのです。

こんなことばかりしているから性根は悪くなる一方だし親しかった人も次第に離れていく。もしどこかで死なない限り淋しい老人になること間違いない。私は人にも自分にもいい加減ウンザリしているのかも知れない。

それにしても人はただふつうに生きているだけで大小雑多のトラブルに遭遇する。他の何ものも見当たらなくとも怒りの火種だけには事欠かない。かりにその怒りがどれだけ傍目に理不尽なものであっても、怒りという情動は大体が我が儘なもの、エゴセントリックなものであり、そこにはいかなる道理も通用しない。人間の世界の怖さはひとえにこういう面にある。「最近あいつの顔ムカつく、殴りてえよな」みたいなティーンエージャー的暴走感情さえ、「大人の世界」にはごくありふれている。むろんきわめて隠微かつ巧妙なかたちで。だからよりいっそう毒々しい。とくべつ実害も与えていないのに気が付けば周囲の人間に糾弾されていたりはぶかれたりしている人達はいわばそんな不条理感情の生贄なのだ。日常のあらゆる場面で誰もがなんとなく身に覚えがあるよね。だからこの世界はもはや、どんな魔界よりも魔界的です。生まれてから死ぬまでこういう感情にさらされて生きる人間はまったく大変ですね。いやほんとに大変ですよ。


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