「便所飯」なんて都市伝説の類だろ、と笑うことが出来ない

サノです、こんにちは。

このごろセンズリのやり過ぎでチンチンが痛い。蒸し暑くなってくるといつもより余計にムラムラが高じてくるので、暇さえあればチンチンをいじくり回しているのだけど。もしこの溢れんばかりのムラムラエネルギーをここ数年来の文筆活動で余すところなく昇華出来ていたら今ごろどれくらい名声赫々たるライターになれていただろうと、つくづく悔恨せずにはいられない。いまこれを読んでいるティーンエイジャーの若者よ、このわたしの悔恨を重く重く受け止めてきっと偉大な人物に大成してくれ。

というわけだから今回は、「友達」の話をしようか。友達とは何か。セネカによれば、とかいう調子で何か高尚な疑似思索を始めるのも一興かも知れないけれど、それは僕の体質に合わない。少なくとも今はそういう趣向の論を展開したい気分ではない。僕の記事は基本的にハイブロウかつ探究心旺盛な偏屈読者を想定して書かれているので、いつもいきなりこうやって全裸のまま事の本質論に足を踏み入れるわけだけど、当然だいたいにおいて結論は出てこない。同じところをただひたすら空転することも珍しくない。もとより結論が容易に出させるような問いは、およそその程度の問いなのだ。浅はかな問いからは浅はかな答えしか導き出せない。この「友達とは何か」問題にしても、上辺だけ体裁のいいような説明で満足してはならない。端的に答えれば答えるだけ空疎に響くのだ。いいか覚えておいてくれ。定まった模範解答などこの世界には存在しないのだ。

以前の僕なら、「友達とは何か」と問われれば、「フルチンで野望を語り合える存在」なんてドヤ顔で答えていただろう。男どもは特に分かると思うけれど、同年代の同性に自分の陰部を見られるのは意外と恥ずかしいものなのだ。それは大き過ぎても小さすぎても黒すぎても白すぎてもからかい(品評)の対象になりやすい極まてデリケートな部位なのだ。そんな恥ずかしさをも乗り越えて互いの「全人格」を受容し合える関係にある種の理想を感じ取っていたのだ。メロスとセリヌンティウスのあの美しい抱擁を思い出してくれ。

いくら気の置けない間柄でも下半身だけは別だった、という話をもう少し続けさせて下さい。陰毛が生えたあたりから、僕はどんな友人に対しても、性器をさらすのにはいつも何がしかの抵抗を感じていた。まして、巷で「真性包茎」あるいは「仮性包茎」などと「蔑称」されているペニス状態でもあった頃は、尚更強い抵抗があった(「包茎」を重大な身体的欠陥のように喧伝して、その「矯正」を巨大ビジネスに仕立て上げた何とかクリニックどもの罪は重い)。己のペニスに然るべき自信がないと、たまに友人と銭湯に連れだって行っても陰部は始終タオルで隠しっぱなしになる。それではとても「裸の付き合い」と呼べるものではなくなってしまい、互いに気まずい思いにさえなってしまう。下手したら「お前そもそもキンタマ付いてんのか疑惑」さえ生じかねない。まことに肉体の隠し事は「熱き友情」の敵なのだ。僕自身は二十歳頃まで、「包茎」という些か否定的なニュアンスを含んだ言葉を知らないでいた。けれども大学時代の友人に何気なくそのことを言われて急に恥ずかしくなって、亀頭をなんとか無理やり露出させるに至ったのだ(最初は触れるだけで滅茶苦茶痛かったな。いや分かる人だけ激しく頷いて下さい)。その荒療治以来、僕の亀頭はオナニーの刺激と共にだんだん大きくなっていって、今では色気たっぷりの雁高ムスコになっている。いや自慢だよ。たまには自慢させろ。

で、何の話だったかな。なんで僕の包茎物語になったんだ。そうだ、友達についてだった。「フルチンを見せ合ってこそ本物の友情」だ、という心情を自分はいまだに捨てきれないでいるようなのだ。自分のこんな健気さが大好きさ。この心情には僕の根強い憧れが多分に反映されている。そうした、男臭くて清らかな友情関係を過去経験してこなかったからかも知れない。

そういえば、「ランチメイト症候群」という言葉をよく耳にします。「一人でお昼ご飯を食べている姿を見られることへの不安」を指す言葉だ。これに関連して「便所飯」というインターネットスラングもある。たとえば、一緒に昼食を食べる相手がいないと思われるのが恥ずかしい為に、トイレの個室で弁当を食べるという「悲しい様子」のことだ。もしこれが実在するにしても主としてこれは学生の間の現象だろう。

いま僕は学生でもなければ会社員でもないので、本当にそうしたことがあるのかは分からない。でもいま高校生時代の昼飯風景を思い出していて、じゃっかん思い当たる節があるような気もする。僕の高校は給食のようなものはなくて、昼飯も校内であればどこで食ってもよかった。記憶によれば、女子の多くは教室内で仲のいい友達と机を合わせて和気藹々と「お弁当」を広げていた。女子に比べて数の少ない男子は大抵部室で食っていたと思う。でも僕が主に属してた男子グループは教室で食うことが多かった。ところで高校というのは同じクラス内であって受ける授業が違っていたりする。その弁当仲間の二人は、僕とは異なる授業を受けていた。それだから授業の加減でたまにその二人がやけに遅れることがあった。いつもなら弁当を広げる頃に彼らが授業から戻ってこないとき、僕は手持無沙汰になって大変バツの悪い思いをした。それを誤魔化すため、カバンのなかに何かを探しているふりをしたり、次の授業の宿題をしているふりをしたりして、とにかく必死だった。嫌な汗が背中をにじませた。もがいている内に二人は幸い戻ってきたけれど、あのときの「穴があったら今すぐ入りたい感情」は今でも生々しいし、悪夢的色彩を帯びて余りある。ついでに言うと僕はそのとき、その二人が結託して面白がっているのではないかと勘ぐったりもしていた。ああ、なんて小さい男なんだ。

今になって思えば、僕もまた「一人飯」を全力で回避したかったのだ。周囲から「さびしい人」として映ることを物凄く気にしていたのだ。あのときの「いたたまれなさ」は二度と経験したくない。たしかに僕は「便所飯」の経験こそなかったけれど、そうなってしまう心的事情については分かり過ぎるほどに分かる。このような、「友達がいないことよりも友達がいないと思われることのほうが恥ずかしい」という、あの二重にも三重にも神経質な情態は、僕にとっても他人事ではない。笑って切り捨てることのできない種類の羞恥心なのだ。これについてはまた別の稿でがっつり綿密に分析してみたい。

それじゃあね。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?