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オナニート対話篇

:派遣社員
:オナニート

 あいかわらずイカ臭い部屋でチンポいじってばかりいるんだな。まるで廃人じゃないか。ここの家賃払っている両親が死んだらどうするんだ。つぎは国に寄生先を変えようっていうのか。もうクズすぎて殺してやりたいよ。そのほうが世のため人のためかもしれない。
B 殺してくれるなら殺してほしいよ。ただし痛みという痛みはすべて耐えがたいんだ。自分に加えられる痛みにも、自分以外に食わられる痛みにも、俺は等しく否を叫びたい。これいじょう《宇宙における苦痛の総量》を人為的に増加させることに俺は反対だ。「生きていること」自体がすでにとてつもない拷問だというのに、そこから逃れるのにどうしてまたさらに我慢を強いられねばならないのだ。どうか「眠るような死」を与えてくれ。
A さいごまで他人の手を借りるつもりか。キング・オブ・クズだな。
B クズクズうるさい男だな。どっかの社会学者みたいじゃないか。ところでこの意識あるいは現存在が「死」によってほんとうに終わるのか、俺には疑問だ。自殺してこの「そのようにある開かれ=私」を終わらせても、すぐに何かべつの「そのようにある開かれ=私」に接続されそうで不安だ。「無」はそもそも経験不可能だから、つねに「何か」が「何か」としてあらざるを得ないのではないか。その「何か」は意識という様態とは切り離せない。けっきょく何をしても意識からは逃れられないのではないかと思うと、発狂しそうになる。
「あの世」とか「輪廻転生」とかそんな陳腐な形而上学的議論は御免だよ。
 これだから労働者は嫌なんだ。まるで思索癖がない。日々食い扶持を稼ぐことに心を奪われ過ぎているから、存在にまつわる根源問題につまづいて懊悩することがないんだ。廃人はどっちだと言いたくなる。
 君みたいなオナニート廃人よりはマシだろう。こっちはまがりなりにも経済的に自立してるし、国に税金も納めている。生産性ゼロの生活保護受給者予備軍のくせに、えらそうな口をきくなよな。
 おのれの優位性を示すのにそう焦らなくてもいい。焦りとはつねに弱者の徴なのだ。けっきょくきみも俺同様、「生きていてもいいですか問題」に苦しめられているんだ。おのれの「無価値性」にうすうす気が付いてるんだ。暇さえあればチンポをいじって万物を罵っている俺はすくなくとも自分がクズだという自覚がある。クズのなかのクズさ。「人間」という最下等動物としての恥辱的自覚にいつも苛まれているクズさ。狂っているという病識があるクズさ。でもお前はなんだかんだいって、自分のことを「まとも」だと思っているだろう。すくなくとも俺の前にいるときは、「じぶんもまんざら捨てたもんじゃないよな」「こんな薄汚いオナニートに比べれば俺はまだ普通だよな」なんてうぬぼれては安心しているだろう。そんな体たらくではお前はいつまでもその俗人的価値基準からは自由になれないだろう。まずはその不潔な小市民的俗臭を体から落とすんだ。
A 俺はいまお前を憐れんでいるんだ。どこで間違えたらこんなクズオナニートになってしまうんだろうかと。親の育て方か、学童期のいじめか、就職活動の失敗か。ああ、クズな人間ほど、「人間なんてみんなクズなものなのさ」的な極端論法によって、自分のクズさを必死に薄めようとする。開き直ろうとするんだ。それが痛々しい。
B 憐れむそぶりで自分の優位性を誇示しようとする、いかにも古典的な手法じゃないか。誰かに対する罵倒表現に力不足を感じたとき、しばしば人が使う戦法だ。「怒ってなんかいない、むしろ可哀そうに思ってな」と調子をがらっと変えてみせる。憐みのなかにより高い「殺傷能力」を求めているつもりなのだけど、だいたいそれは失敗している。顔が真っ赤になっていて、怒りの動機が見え透いているからだ。
 そんな心理分析を披露してみせることで、「自分はそのへんのクズとは違う」といいたいんだね。どん詰まりの惨めさを「知的」にめかしこませてるんだ。君みたいに自分を高級そうに見せたがるクズは世の中に掃いて捨てるほどいるというのに、めいめいが「俺だけは世間の嘘をぜんぶ見抜いているんだ」と思い込んでいる。中島みゆきの「世情」の歌詞みたいだ、あははは。シニシズムを徹底させるならそうした振る舞いの滑稽さも見抜いてほしいんだけど。人間は、かわいいね。
 いま隣から下品なあくびが聞こえてきただろ?
 うん、老人かい? 
 そう、七十過ぎの年金ジジイ。この壁がうっすらヤニ臭いのは隣から浸透してくるからさ。この時間になるといつもあくびを響かせるんだ。それは人間の無神経と醜悪性を凝縮したような雑音なんだ。いつからかそれが気になって殺意を抱くようになってきた。さいきんは寝ても覚めてもこの糞ジジイが死ぬことを祈っているよ。あんまり糞ジジイ糞ジジイと言いすぎるものだから、このまえ糞のほうが部屋に訪ねて来て、「僕をあんな汚いジジイの接頭語に使わないでください」と泣きついてきたよ。生涯一人だけなら合法的に殺してもいい「一生一殺法」なんて漫画みたいな法律があれば隣のジジイはいまごろ納骨室のなかにいるよ。
 君くらい恨みを抱きやすい性質だとその爺さんに殺意を抱くよりずっと前にその「権利」を使っていそうだけどね。しかし七十過ぎてこんな手狭で薄汚いワンルームに住みたくないね。こういうのを世間では「負け組」というのかな。
 路上で寝るよりはいいんじゃないの。ときどきガキなんかに襲撃されるみたいだから。
 ホームレスが子供に火を付けられて大火傷したという事件も前にあったな。
 そんな話をきくたび、人類をまるごと地上から消し去りたくなる。「犬畜生にも劣る」なんて常套句があるけど、そのかわりに俺は「人間にも劣る」と言っている。そもそも人間にとって《弱者攻撃》は合理的な享楽でもあるんだよ。そこを忘れちゃいけない。将来的に自集団のフリーライダーつまり無駄飯食いになりかねない劣等個体をあらかじめ排除しておけば、「集団各成員の将来的な生存率」が上がるんだから。
 なんか受け売りっぽい説だな。「自分らもいつ落ちぶれるか分からない以上、他個体にはつねに優しく接するべきだ」と考えることは集団生物学的に不合理なことなのか?
 そう冷静に考えられる成員もいないではないが、ほとんどの成員は自分がそんな劣等個体に成り果てると考えただけで猛烈な実存的恐怖に襲われるんだ。だから自分の周囲にいる劣等個体を目にいれるのが辛い。《現実》とはつねに醜くく残酷なものなのに、その醜くく残酷な《現実》を彼彼女らは直視できない。どういうわけかその否認は憎悪に転ずる。憎悪のあまり暴力的に迫害してしまうことも少なくない。これが「いじめ」や「差別」を成り立たせる心理的原理の一つさ。これは「ある種の人間にとって」の話じゃない。いくら甘く見積もっても、人間ほど残忍で酷薄な生き物いないよ。トマス・ホッブスは「人は人に対して狼である」なんて言ったけど、狼からしたら「お前らみたいな獰猛な生き物に悪役をあてがわれたくないよ」と抗議でもしたくなるだろう。狼に殺された人間の数と、人間に殺された狼の数は、まるで比較にならない。むろん人間ほど互いに殺戮し合って来た生物種はほかに存在しない。ああ、いまこうしている今もどこかで人間の子供が産声を上げているんだ。それを思うと不快のあまり怖気付いてしまうよ。世の中に災厄をもたらし、その災厄を維持延命させているのは、君たちのような「活動的な人間」、言い換えるなら「クズという病識のないクズ」なんだ。チンポをいじってばかりいる俺たち孤独なオナニート族は「ほぼ」人畜無害さ。あえて「ほぼ」を強調したいのは、ただ生存しているだけで誰もが既に動物実験や工業畜産などの《構造的暴力》に加担してしまっているからだ。もしかりに国が戦争をはじめて国民皆兵制度が出来ても、オナニート族は最後まで無暴力主義を貫き通すだろう。いっぽうお前らみたいな「活動的なクズ」は「本当はやりたくないこと」でも命じられればやってしまうに違いない。原爆を落としてこいと命じられれば原爆を落としに行くし、あいつらをガス室で殺せと命じられればその虐殺作業に黙々と服するだろう。一事が万事で、生殖器官による個体生産になんの疚しさも感じない点で、そいつはもうすでに救いがたいほどに鈍感なのだ。あまりに破廉恥なのだ。この《大きすぎる破廉恥》をどうしたらいいだろう。巨大銀行が経営危機に陥ると「大きすぎて潰せないToo big to fail」論が浮上するが、それと同様、《大きすぎる破廉恥》は裁けないのだ。なにしろ親や知人がそうした破廉恥状態にあるのだから。俺たちオナニート族の目から見ればこの世は一大破廉恥地獄でもある。《対話に値するまともな人間》などは絶無に等しい。
 また爺さんのあくびが聞こえたね。
 もう生きているのに飽きているんだよ。存在の空虚に呑み込まれているんだ。酒とタバコとテレビではとても倦怠による精神浸食を止めることはできない。ほとんどの人間は生きることに飽きている一方で、「死の不安」に怯えまくっている。あらゆる老人は「まだ生きている」という《不名誉な状態》に置かれている。それは「死ぬことを期待されている」ということだ。老人とはいつも「いつまで生きているんですか」と無言のうちに問われ続けなければならない存在なのだ。その点で俺によく似ている。若い世代からすれば老人は基本的にお荷物でしかない。それに老人は若者がいずれ成り果てる姿を予告する《醜い鏡》でもある。邪険に扱いたくなるのはそのためだ。
A 悲観的過ぎやしないかい。君はよほど老いを恐れているんだね。
B 
恐れている以上に、嫌悪している。俺からすれば「人間」という動物であることがすでに屈辱過ぎる受難なのに、その受難を受難とも思わず六十年も七十年も平気で生きられるなど考えられない。その鈍感さは万死に値する。生き残ってきたやつは、生き残れなかったやつに比べて、何万倍も業が深い。
A 老人も好きで老人になったわけじゃないからな。彼らにも悩みは尽きないだろう。
B 
そんなのは老人に限らない。浜の真砂は尽きるとも、世の憂いだけはぜったいに尽きないんだ。だからこそその憂いの再生産をどこかで止めるべきだった。子供を作ったり、孫の誕生を喜んだり、のうのうと年を取ったりすべきではなかった。人間生命の連鎖を断ち切らんとする《倫理的反逆意志》をどこかで宿してほしかった。
A 世間体と生活のことしか考えていない庶民には難し過ぎる注文だね。またあくびが聞こえたね。ごにょごにょ独り言も聞こえる。
B 独居老人はさびしいんだよ。もっとも独居でなくても十分さびしいのだけど。ちなみに老人がやたらと昔の自慢話をするのは見捨てられ不安が半端ないからだよ。「自分はこんなすごい立派な人間だったんだ、自分にはこんな価値があるんだ、だから見捨てないでくれ、殺さないでくれ」というわけ。皮肉なことにそうした自慢話をやればやるだけますます嫌われ遠ざけられることになるんだけども。老人じゃなくても人は隙あらば自分語りをする。自己アピールに余念がない。どいつもこいつもやはり、不安なんだ。《居場所の不確定性》に自覚的なんだ。会話中に有名人とのつながりをさりげなく仄めかすいわゆるネーム・ドロッピングも、フェイスブックでのにぎやかな生活自慢も、インスタ映えランチの投稿も、あるいはこの対話篇の作者ように自分の独自性と才覚を文章で示そうとすることも、多かれ少なかれ、「わたし生きていてもいいですよね?」という涙ぐましい承認要求行為なんだ。でも何度でもいうけど、人間なんてものはただそこに生きているだけで害悪なんだ。本当はいますぐ全部まとめて死んだ方がいいんだ。もしかりいま全人類が俺みたいなオナニートになれば地上から暴力は無くなるだろう。オナニート族からはヒトラーもチャウシェスクも出てこない。もちろんシュヴァイツァーもマザーテレサも出てこない。子孫も残さないからやがて人類という悪性腫瘍は地上から消滅するだろう。
A もしみんなが君みたいになったら、いったい誰が清潔な水や食べ物を供給するんだ?
 凡庸な悪意を含ませたそうした問いに対しては、いつもかならずこう答えることにしている。「そもそもみんなが俺みたいなオナニートになることなどは絶対にありえない。だがもし仮にみんなが俺みたいなオナニートになって「社会」が破滅に瀕するならそれこそ俺の望むところだ」と。社会とはそういうものなのだ。みんなが公爵である社会なんてありえなかったし、みんなが乞食だった社会もかつてありえなかった。俺がオナニートという語を自虐的に使うのは一種の韜晦だよ。本当は「資本主義体制下における欲望追求の空しさにいち早く気が付いた賢者」であり「人間存在の暴力性を糾弾し続ける無為の人」と自負している。オナニートはひとつの称号であって、それを手に入れられる人間は限られている。大多数の凡人は君みたいに「まともな労働者」や「善良な市民」を演じるのに必死だからね。そういう凡人こそあらゆる災厄の発生源だってことは、もうこれいじょうは繰り返さないよ。疲れたから。
A ばかばかしいや。マスかいて寝やがれ。俺はもう帰る。

(たぶん続く) 

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