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「生活世界」への復讐意志としての文学

晩夏、仰向けになって虚空にもがいている瀕死の、靴先で軽く踏むと断末魔の音を漏らしそのまま絶命しそうな蝉のなかに「生命のはかなさ」を観照しては感傷に浸ってみせる、どこにでもいる凡庸で厚顔な自称「詩人肌」の、多分に作為的な「浪漫的自我」のなかにさえ、狂気と紙一重あるいは狂気そのものと呼んで十分な「文学意志」の痕跡がある。あるはずだ。なければならない。

「文学意志」とは、「こんなこと誰に言っても分からないだろう」としか思えない「語り得ぬ何か」を敢えて語ることで「生活世界」の堅牢構造を何とか揺さぶらんとする意志のことであり、この意志を貫徹するためなら人はたとえどれだけペニス臭いニコチン中毒の悪魔とでも取り引きをしかねないのだと、私はそう考えて来た。

でもこんな大味な言い方だと、あたかも、あらかじめ「語り得ぬ何か」が「既に直接的に意識化されてそこにある」かのような印象を与えかねない。むろんそんなはずは無くて、そもそも「今ここ」つまり「統一されている(と思われてる)所与の意識」において、「明確な輪郭を得た想念」などほとんどありえない。たとえば快や不快などが「現前としてある」にしても、そうしたものをはっきりと自覚的に語ることはそう出来ない(「言語化能力」にいささか秀でていると自惚れている私のような人間でさえ無力感に苛まれる)。

なにがなんだか分からないが語らねば気が済まない、という黙し難い衝迫がない限り、人は何も書かないし、何も書けないだろう。この「なにがなんだか分からない」こそ、「実存」の有り方を端的に示すものだ。なにがなんだか分からないまま日常はとにかく常に既に「進行」している。なにがなんだか分からないままいつか終わるのかも知れないし、あるいは終わらないのかも知れない。「われわれ」は「この世界」について「なにがなんだか分からない」のにまるで「わけが分かったふり」をしながらふわふわ曖昧に漂流し続けている。

「語ること」はこの「なにがなんだか分からない世界」を「お馴染みの何か」に塗り替えようとする意志とも言える。見様によってはそれは「悪あがき」でもあるし「ごまかし」でもある。どっちにしても「語る」というこの言語化作用を受けて「世界」は本質的に分節化され、「見慣れた何か」「既にある何か」という安定的様相を帯びる。常に細々した作業に満ち溢れる「生活世界」にあって、「人」はいちいち、不安に襲われたり驚いて腰を抜かしているわけにはいかない。「なんで無じゃなくて何かがあるんだ、こんなこと変だ、不思議だ、お前ら、そんなカペカペになったパンツなんか洗ってる場合か、この問題をいますぐ考えようぜ」なんてわけにはいかない。生活世界に埋没する「人間」がおしなべて判で押したように愚昧で薄っぺらなのはひとえに生活世界を覆う「のっぴきならなさ」のせいだ。そこではなにもかもが自明の曖昧さを帯びて通りすぎてしまう。

ほんとうは誰も「この世界」に安住できないはずなのに、誰もが「この世界」に安住しているように見えるのは、なぜだろう。これは孤独と文学と中期プラトンを愛する高校生にこそ相応しい、哲学的には隙だらけの問いなのだが、こんな問いが脳裏をかすめたことさえない「虚ろな人々」の中にあって、この種の問いを頭蓋に宿せる鋭敏沈着の高校生は、たとえるなら家畜の群れに紛れてしまった天馬のごとき稀有な存在であり、私はそんな美しい高校生と全裸で抱擁し合ったまま昇天したくてたまらないのです。思索にふける人間嫌いの男子高校生とか想像すると、めっちゃ萌えキュンするんだけど、そんな腐女子的妄想、いまはどうでもいいですか。この素敵イメージを膨らませて四百字詰め原稿用紙五十枚分くらいの短篇を書きたいとずっと思っているのだけど、書き出すが早いかおのれの文の蕪雑に幻滅してしまうのですね。

それはさておき、生活世界という「存在忘却」の強烈な磁場のなかで「存在」に驚異し続けることは、絶望的に容易ならざることだ。生活世界は思索に向いた場所ではない。繁華街のゲームセンターで茶道の稽古をするような無理な場違い感がある。というのも「存在」はほとんどの場合「存在者」としてありありと現前化し続けているからだ(ほこり、空気の研究、ミミズ、ラジオ、阪神戦、ロマン・ロラン、机、イケメン、グーグル、テンガ、雨、あられ、横浜、たそがれ、ホテルの小部屋、裏道、残り香、タバコの煙、オルテガ、カセット)。生活世界はのべつ騒がしく何もかもが雑であり、どうしようもなくノンストップであり、いちいち指示する暇がないほど不潔な事物に満たされており、人間らしい形をしている者らはどいつもこいつも白痴の節穴で、つまり一言でいうと愚劣地獄なのだ。

こんなメタ思考的記述に「没入」しているつもりの最中でさえやはり私は生活当事者という亀甲縛りのために不自由を託っているのであり、間断なしに発生する「雑多な気遣い」のせいで、文学意志によってようやく呼び覚まされた思考もすぐさま散漫化され、「同じこと」を五秒以上考えることさえ不可能な有り様なのだ。

これ程おびただしい数の愚劣化装置にのべつ輪姦されながら、なお愚劣化に抗い続ける者よ、空疎なお喋りの飛沫感染を回避し続けている者よ、迷妄深き生活世界に溺れることを潔しとしない者よ、どうかその覚醒の意志を極限まで先鋭化されることを願います。

ほんじゃあ、また。マスかいて酒飲んで寝ます。今日も頑張らないでください。

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