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静岡の古城『丸子城』の歴史

最近は大河ドラマの影響ですっかり徳川家康のゆかりの地がクローズアップされることが増えましたが、駿河といえばやっぱり今川ですよね!

今回は今川推しの僕がおすすめする静岡県の山城「丸子城」を紹介していきます!

【丸子城の歴史】

駿河国守護・今川氏の家臣である斎藤安元によって、応永年間に築かれた丸子城。
その後は今川氏の拠点のひとつとして、武田氏に攻められた際には駿河西部の攻略拠点としても使われました。
現在は曲輪、土塁、空堀、三日月堀、堀切、竪堀、枡形、馬出し等の遺構が残され、歴史と文化を感じることができる場所として知られています。


【応永年間の丸子城築城】

斎藤安元は、応永年間(1394~1428年)に駿河国北部にある現在の静岡市駿河区丸子に丸子城を築きました。
南北朝時代から室町時代初期にかけて、今川氏が実権を握っていました。
斎藤安元は今川氏の家臣であったため、丸子城は今川氏拠点の一つとして、駿河府中の西の入口を守る城として使われました。


【今川氏親の居館として】

文明8年(1476年)に今川義忠が戦死し、龍王丸(後の今川氏親)と小鹿範満との間で家督争いが起きた際、龍王丸は一時丸子城で暮らしていました。
氏親が西進を目指すに当たり、駿河府中の防御を固めるため斎藤氏の居城を接収し、南の三角山方面に城域を拡大したのが南城です。
氏親以降の城主や歴史については不明な点が多いとされています。


【武田信玄の駿河侵攻】

永禄11年(1568年)、武田信玄が駿河に侵攻すると、西駿河に残る今川方への押さえとして山県昌景が丸子城に置かれました。
永禄13年(1570年)、信玄は駿河全域を制圧して丸子城は諸賀兵部大輔・関甚五兵衛を在番とし、天正6年(1578年)頃には屋代勝永に替えられました。
この時期には、西方面の大規模な増築や各所の改修が行われたとされています。


【徳川家康の支配】

天正9年(1581年)3月の高天神城落城を前に、武田方は徳川方に丸子城を明け渡して退去し、徳川家康は松平備後守(松平清善?)を置きました。
天正18年(1590年)の関東移封に伴い廃城となり、現在は丸子城跡として整備されています。


【丸子城跡の見どころ】

丸子城跡には、北城と南城の遺構が残っています。
北城には、一の曲輪、二の曲輪、三の曲輪が段状に造られ、各曲輪は土塁で囲まれています。
北城と南城を仕切る空堀も見ることができます。
南城には、「千畳敷(せんじょうじき)」と呼ばれる主郭を構え、東西の支尾根上に段上に重ねた曲輪が設けられています。
南城本丸から北城主郭間の西側斜面には、南北に長大な空堀が設けられています。

また、丸子城跡周辺には、源頼朝の創建で、戦火により類焼した後、武田信玄が再建した寺「誓願寺(せいがんじ)」や、今川氏に仕えた連歌師宗長ゆかりの寺「吐月峰柴屋寺(とげっぽうさいおくじ)」など、歴史や文化を感じることのできる見どころがたくさんあります。


【丸子城跡で甲冑体験!?】

丸子城跡は、城跡内にはたくさんの見どころがあります。
そんな丸子城跡を現代の武士こと佐野翔平と一緒に回ることができる丸子城ツアーをフワッと考えています。
ツアーでは、鉄製の甲冑に身を包み、さながら丸子城を攻める足軽になったつもりで本丸を目指して城址を進んでいきます。
また、本物の火縄銃を抱えながら進軍する体験できるので、より当時の状況に近い雰囲気を味わえるのではないでしょうか。
本丸や曲輪を背景に記念撮影もできることから、一日中楽しめる内容になると思っています。

興味ある!と思った方はぜひこの記事を引用してツイートしてくださいね。
反応が多ければ実現するかもです!


では、また次回!!

最後まで読んでいただきありがとうございます。 その他の記事も読んでいただけると嬉しいです!!