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レモン2019

 えたいの知れない不吉な魂が梶井基次郎の心を終始おさえつけていたであろう1925年から94年のときを経た2019年、えたいの知れない不吉な魂が、今度は、私の心をおさえつけていた。酒を飲んだあとの宿酔がいけないのではない。また、結果した肺尖カタルや神経衰弱がいけないのではない。ずばり、無職がいけないのだ。収入がないのがいけないのだ。そして、無職と無収入という2つの虚<無>がもたらした、その不吉な魂がいけないのだ。以前、私をあれほど喜ばせてくれた、ビートルズやザ・フォーク・クルセダーズの曲も、一節も辛抱がならなくなった。
 ただ、なぜだかその頃、私は米津玄師の『Lemon』に強くひきつけられていた。2018年の第69回の紅白歌合戦がきっかけだった。2010年代に入って、紅白は本当に退屈なものになっていた。不吉な魂がいけないのではない。多分、NHKがいけないのだろう。しかし、米津玄師の『Lemon』だけ例外だった。心に響いた。素直にいい曲だと思った。
 察しはつくだろうが、私がここで米津玄師の『Lemon』をもちだしたのは、梶井基次郎の『檸檬』に無理やりこじつけるためである。たしかに、『Lemon』はいい曲だ。夢ならばどれほどよかったでしょう。私は、『Lemon』のサビの中で、現実の私自身を見失うのを楽しんだ。なんのことはない、私の錯覚と壊れかかった現実との現実との二重写しである。
 しかし、梶井基次郎の『檸檬』も、『Lemon』に負けず劣らずいい小説だ。少なくとも、20代後半・無職・独身のひきこもりにとって、『檸檬』と『Lemon』どちらがより心に刺さるかと問われれば、7対3くらいで『檸檬』の方に軍配が上がるだろう。米津玄師さんには申し訳ないが、生活の切迫感や退廃感(デカダンス)といった点で『檸檬』は『Lemon』に大きく水をあけている。
 ところで、そんな無頼な私ではあるが、残念ながら、するどい感受性、といったものをもちあわせてはいない。また、たとえ、そのような感受性をもちあわせていたとしても、それを活かせるだけの表現力というものがない。『檸檬』みたいに、自らの心象を詩的に表現して、それを芸術レヴェルに昇華させるなんて、とてもじゃないができっこない。私は、自分が梶井基次郎でないことをひどく恨んだ。
 花火や、おはじきや、南京玉、そういった梶井基次郎の手にかかれば繊細かつ美しく見えるものでも、私がものすれば、ただのがらくたになってしまう。そう、自分では嫌なほどよくわかっているが、私はただのぽんこつなのである。もちろん、小説家になって稼ぐなんて笑止千万、夢のまた夢である。さらにまた、私がもちあわせていないのは感受性のみにあらず。お察しの通り、金ももちあわせていない。梶井基次郎よろしく、私にもまるで金がなかった。
 とはいえ、私自身を慰めるためには贅沢ということが必要だった。だから、紅白の『Lemon』を聴いて感動した私は、わざわざ池袋のタワーレコードにまで行って、『Lemon』のCDを買った。これは、吝嗇な私にとって、驚天動地のことである。お値段は、税抜き1200円。決して安いわけではない。いや、今どき『Lemon』のOfficial MVもYouTubeにアップロードされていて、無料で視聴できるくらいなのだから、1200円はやっぱり高い。とはいえ、CDはもう買ってしまった。高ければ返品すればいいだけの話だが、そんな気力ももうない。全てが全て、不吉な魂がいけないのだ。
 CDにあって、YouTubeにはないもの。私は必死に考えをめぐらせた。そうだ、CDジャケットだ。1200円分の慰めをどうしても得たくって、私はCDジャケットを必死にながめた。じっと。そこに描かれているのは、淡青色の背景にレモンの実ひとつ。梶井基次郎だったら、このレモンをどう描写しただろうか。(ちなみに、本家『檸檬』に登場するレモンは、「レモンイエロウの絵の具をチューブから搾り出して固めたようなあの単純な色」で、「あの丈の詰まった紡錘形の格好」だった。)そして、梶井基次郎がそれを有料記事で売るとしたら、いくらの値をつけるのだろうか。ああ、またお金のことを考えてしまった。いけない。

 生活がまだ梶井基次郎ほど蝕まれていなかった、2019年の私の好きであったところも、やはり丸善であった。これもある意味『檸檬』へのこじつけではあるが、私はたぶん人並以上に丸善が好きである。丸善偏差値でいったら、60といったところだろうか。ただ、京都でなく、東京に住んでいるから、行きつけは、東京駅近くの丸の内本店だ。(京都の丸善にも一回行ったことがある。そのときは、記念に新潮文庫『檸檬』473円も買った。)
 今の丸善に、オードコロンやオードキニン、石鹸や煙草は売られていない。とはいえ、丸善の店内に漂う文化と教養の香りは、今なお消え失せずに、在りし日のまま残っている。100年以上の歳月を経た今でも、丸の内本店の4階にはちゃんと文具売り場があって、高そうな万年筆がお行儀よくショーケースに並べられている。もちろん、高すぎて私には手が届かないお品物であるが。
 同じ階には、洋書売り場もある。私は英語が読めず、無論、内容も分からんので、洋書なぞ買ったりはしない。ただただ虚栄心から、英語が分かるような顔して、いたずらに洋書コーナーを浮浪し続けるだけだ。そういえば、梶井基次郎も街から街へ終始浮浪し続けていた。これは、金がない人に共通する病癖なのである。だって、眺める分にはお金はとられないのだから。
 ひとつ下の階、3階に降りると、文庫コーナーがある。色とりどりの文庫が売られている。もちろん、梶井基次郎の『檸檬』もちゃんと売られている。フルーツつながりで、スタインベックの『怒りの葡萄』も売られている。そして、司馬遼太郎『坂の上の雲』やトルストイ『戦争と平和』なんかといった大物になると、セットできれいに展列されている。インテリアとして、こうした文庫セットは、ひとつ家にあったらいいのになあ、とは思う。でも、買えない。いわゆる、高嶺の花だ。私は、店内でそうしたものを眺めているだけで十分だった。もし、そうした本や丸善に来ている学生、あるいはレジなどが借金取りの亡霊のように見えてきたら、私はおとなしく心療内科に通おうと思う。
 とはいえ、そんな私でも文庫本を買うくらいの経済力はある。いつも、店内を浮浪しているばかりでは丸善に申し訳ないから、たまには文庫本も買って帰る。例えば、ヘルマン・ヘッセの『車輪の下』税込374円。でも、思うのだが、『車輪の下』を読んだらからといって、374円分のリターンがあるのだろうか。『車輪の下』を読むと、374円稼げるだけの知識が身につくのだろうか。あるいは、374円分の楽しさやおもしろさが『車輪の下』には詰まっているのだろうか。ああ、頭が痛くなってきた。『車輪の下』を読んだら、むしろ不良になって、社会からつまはじきにされて、374円以上損してしまいそうだが。ああ、またまたお金のことを考えてしまった。いけない、いけない。

 チェーホフはかつて、こういうようなことを言っていた。「小説の中に拳銃が出てきたら、それは発射されなくてはならない。」ならば、私もチェーホフに倣って、こう言おう。「小説のなかにレモンと丸善が出てきたら、レモンは丸善にセットされなくてはならない。」そうだ。私は、すでにレモンと丸善について話した。準備万端、こじつけは十分に整ったのだ。あとは、レモンを丸善にセットするだけだ。
 しかし、先ほども申し上げたように、私はぽんこつである。梶井基次郎やチェーホフといった偉大な文豪に比ぶべくもない。みなさんの期待を裏切って申し訳ないが(そもそもはなから期待していないとは思うが)、ぽんこつはレモンを丸善なんかに置いたりはしないのだ。そうしたら、本家『檸檬』の品位を貶めてしまうことになる。では、ぽんこつならどこに置くのか。しかも、私みたいにいつもお金のことばかり考えているぽんこつなら、どこに置くのか。賢い御仁であれば、もうお分かりだろう。ずばり、ブックオフに置くのだ。というわけで、米津玄師の『Lemon』がブックオフにセットされる、レモン2019のはじまり、はじまり。

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 どこをどう歩いたのだろう。私が最後に立ったのは、丸の内周辺にあるはずのないブックオフの前だった。あるいは、丸の内というオフィス街にブックオフという貧乏人の巣窟が存在することが、逆説的な本当であった。平常あんなに避けていたブックオフが、そのとき金欠だった私には、やすやすと入れるように思えた。
 「今日はひとつ入ってみてやろう。」そして私はずかずか入って行った。しかし、何を売ろうか。「あ、そうだ、そうだ。」その時、私は、ポケットの中の『Lemon』のCDを思い出した。1200円で買った『Lemon』のCD。それをブックオフに売って、現金化してみたら。「そうだ。」私にまた、チャリンチャリンというお金が入るときの軽やかな昂奮が帰ってきた。というわけで、私は、買ったばかりの宝物『Lemon』のCDを、ブックオフに譲り渡すことにした。
 早速、買い取りレジに大切な大切な『Lemon』を持っていった。店員さんは「査定が終わるまで少々お待ちください」といった。CD1枚なのに、数分待った。1分経過、いら。2分経過、いらいら。3分経過、いらいらいら。ピンポーンパンポーン。ああ、やっと、私の番号が呼ばれた。期待に胸ふくらませながら買い取りレジに戻った。査定額が店員より言い渡された。100円だった。店員さんは私に「売りますか」と訊いた。私は拒否した。目に涙を浮かべながら拒否した。1200円で買った『Lemon』が100円。かけがえのない私の『Lemon』が100円。これはひどく私を落ち込ませた。

―つまりはこの値段なんだな。―

 この値段こそ私が常々つきあたっている現実で、すなわちは、弱肉強食の経済社会である。買うときは高く買わされ、売るときは安く売らされるのである。強い者が得をし、弱い者が損をするのである。何がさて私は弱者だったのだ。
 不意に第二のアイディアが起こった。その奇妙なたくらみはむしろ私をぎょっとさせた。

―『Lemon』のCDをブックオフに売るのではなく、むしろ売らずにこっそりブックオフのCD棚の中に入れて、そのまま何くわぬ顔をして外へ出る―

 私は変にくすぐったい気持ちがした。そして、そのアイディア通り、『Lemon』のCDはわざと売らずに、ブックオフのCD棚の中に混ぜてしまった。買い取りレジに通されていない、やくざなCDが1枚。ブックオフのバーコードが貼られていない裸のCDが1枚。それが、私の『Lemon』である。バーコードが貼られ、売値がつけられた周りのCDたちは、変に緊張しているように見えた。ブックオフのCD棚の中で、唯一、私の『Lemon』だけがカーンと冴えかかっていた。そして、本家『檸檬』よろしく、私はしばらくそれを眺めていた。

 しばらく経って、冷静になって、私は考え直した。1200円損してしまったと。『Lemon』を店内の棚の中に置いていったまま、ブックオフから去ってしまえば、『Lemon』のCDを捨てたことになる。0円-1200円=-1200円。何度計算しても1200円の損だ。店員さんの言う通り、おとなしく100円で売っていれば、100円-1200円=-1100円の損だったわけで、たしかに損は損に変わりないが、捨てるよりはまだましだ。
 しかし、憂鬱に支配されていた私は、とりもなおさず狂っていた。「出て行こうかなあ。そうだ出て行こう。」そして、私はすたすた出て行った。もちろん、『Lemon』をブックオフのCD棚に残していったまま。
 考えようによっては、私は『Lemon』のCDをブックオフに寄付したことになる。高尚な言葉を使えば、慈善活動だ。しかも、一介のニートにすぎない私の慈善活動は、人々に知られることもない。当然、褒められることもない。有名人のチャリティーみたいに話題になることは、ドナルド・トランプが日本の次期首相になるくらい、ありえないのだ。その意味で、私の慈善活動は、有名人のそれよりさらに高尚である。もちろん、ドナルド・トランプよりも高尚であるはずである。隠れた善行。それが、至高の姿なのではなかろうか。
 しかし、それが何になるだろう。こんなささいな善行で、世界平和は実現するだろうか。相も変わらず世界各地で紛争は続いている。私にご利益が降ってくるだろうか。相も変わらず私は無職で独身のニートである。結局、何も変わらないのだ。地球は一定不変のスピードで自転と公転を続け、悪人はなくなるどころか、日一日と増え続けている。
 そして、絶望的なことに、私以外の善人、すなわち、私を除くその他全ての善人は、相も変わらずチヤホヤされている。良いことをしたら報われる。これは真っ赤な嘘だ。良いことをしても報われない。もちろん、悪いことをしても報われない。ともかく、報われようと安易に願っている、私みたいなぽんこつが報われる日は永遠に来ないのだ。また、報われようと思っていなくたって、当然報われることはない。
 むしろ、自分からすれば善行でも、他人からすればありがた迷惑なことだって多い。今回の『Lemon』の件にしたってそうだ。何も事情を知らないお客さんが、バーコードのついていない『Lemon』をレジにもっていったとして、お会計しようとしたって、ブックオフ側も途方にくれてしまうだろう。かといって、そのお客さんが、私の『Lemon』(私はもう所有権を放棄したが)をレジに通さず、そのまますたすた店から出ていってしまえば、万引きに疑われてしまうかもしれない。そもそも、私が無償でブックオフに置いていった『Lemon』を無断でブックオフから持ち出したら、法的に万引きなのだろうか。ああ、頭が痛くなってきた。いけない、いけない、いけない。
 令和の高度資本主義システム、イコール、弱肉強食システムにおいて、私みたいな変人は、こっぱみじんに爆発してしまったほうがマシ、というわけなのだろうか。『檸檬』において爆発すべきだったのは、丸善に置いていかれた宗教的なレモンではなく、はたまた、たまにニュースに出てくる中国の化学工場でもなく、むしろ、私みたいな変人の方だったのではないか。
 またもや憂鬱な気持ちが街の上の私をひどく落ち込ませた。ブックオフの棚へバーコードのついていない恐ろしい爆弾を仕掛けてきた奇怪な悪漢が私で、あと十分経ったとしても、この『Lemon』事件がツイッターやnoteのトレンドにのぼることも決してない。むしろ、こんな小説(?)は誰にも読まれず、千変万化する浮き世の塵芥として葬り去られるだけだろう。私はこの想定を熱心に追求した。「そうしたらあの気詰まりなブックオフはますます儲かることになるだろう。」
 私は皇居を背にしながら、家に帰るため、東京駅総武快速線地下ホームへ下がって行った。そういえば、「雨が降りやむまでは帰れない」んだっけ。驟雨。

おわりに

本小品はフィクションです
良識をお持ちの方は、くれぐれも真似しないでください。

以下、参考文献になります。


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