三人之会について 2 (奥田)



 おはようございます。

 三人之会主宰の奥田です。

 今日は三人之会(の周辺)について引き続きお話をしていきます。

 三人之会はその年度が終わるごとに、メンバーを新しく募り活動を行いますが、今年度(2023年度)のメンバーである書家・今子青佳、映像作家・田詩陽は、大学院の同期でもあります。

 実は私は2021年に京都芸術大学(旧:京都造形芸術大学)の大学院に進学しました。理由について簡潔に述べるなら、私自身は能の技法を演出に取り入れることに関心があり(能との接点が実は中国での演劇留学中に生じたものであることは記事を改めて述べます)、「パルコ能ジャンクション」(伝統的な装束を身に纏った能楽師と、レーサー服を着用し妖艶な振る舞いをする野村萬斎ーー当時は武司ーーの取り合わせが反響を呼んだ)を演出した演出家・渡邊守章氏、謡曲に統一主題がどう表現されているのか丁寧な分析を続けてこられた研究者・天野文雄氏両名がかつて教鞭をとっていた京都芸術大学(旧京都造形芸術大学)の大学院へ進学することにしました。

 「能の技法」というのは高級フカヒレのようなもので、うまく調理を施せば美味であるけども、それをそのまま切り刻んでチャーハンに入れても(たとえば能のうち足拍子だけ取り出してそれに歌謡曲を合わせても)、新しい何かを食べた驚きはあるかもしれないが、果たして美味であるか?という疑問がありました。何しろ扱いが難しいものですから、我流で色々試すより、実際にその調理に携わったことがある人、あるいはその道に詳しい方がいる大学院で学んでから、自分の現場で実験をやってみようという目論見でした。



 さて、そんな京都芸術大学ですが、我々舞台芸術・映像・小説など文化芸術に関わるものは「芸術文化領域」というグループに入れられ、他の領域で活動を続けているアーティストと強制的に接触することになります。絵画・工芸・写真などはそれ単体で専攻として成立しているのですが、文化、というより文芸から発展した芸術は人数も少なく、全部でたったの5人という少数クラスで、その中でさらに個別で指導の先生につくのですが、芸術文化領域でのゼミ授業もあります。

 大学院に進学する前は東京の演劇養成所(劇場創造アカデミー)に通っていましたが、そこは演劇をやりたい人たち、というよりは演劇命!が集まるところで、たまに映画の話がでるものの、流石に映画を撮影している人はおらず、文学のぶの字も話題にのぼることはありませんでした。そんな環境から一変、演劇をほとんど見た事のないアーティストたちに、自分の活動、自分が作品の中で追い求めているものについて説明をする必要がありました。

 最初はどういうふうに説明をしたらいいか悩んだのですが、話しているうちに分かったのは、「物語/もしくはテクスト」をどう扱うか、造形美と文学性(あるいは意味)の問題です。

 田詩陽は撮影スタッフ(カメラ)として各地の現場で修行を積みながら、修了作品として長編映画の撮影に取り組んでいます。彼にとって最も困難なのはどう撮るかーーつまりデザインの問題ーではなく「何をどう台本という形に落とし込むかが最も難しい」と語ってくれました。

 今子青佳は近年、作品の素材として澁澤龍彦『高丘親王航海記』や筒井康隆『残像に口紅を』といった小説を取り扱っていますが、そこからインスパイアされたーーつまり自分で自由に解釈して造形芸術的として書を描ききってしまうのではなくーー例えば作品「筒井康隆『残像に口紅を』」では、小説全文の書き起こしを作品として提示しました。そこには「テクストあるいは意味」をどのような基準に基づいて扱うかという問題が生じます。

 今回の公演でも、書・映像・俳優・音楽というマルチメディア(多領域)の技法を使って演出をしますから、当然視聴覚的な美しさーー造形的な美ーーを目指してはいるのですが、同時に「真夜中」から「明け方」という時間の流れと共に変化し、そして雑多な倉庫ーー「地獄?それとも首吊り台」ーーから水が満ち満ちる空間の中で姿を変える高行健『逃亡』を追いながら、物語が我々に必死に伝えようとする統一主題を追っていきたい。私が能に強く惹かれるのも、文学性と造形美(視聴覚的な美しさ)がギリギリの緊張感をもち、絶妙なバランスで成立しているからだと思います。三人之会の取り組みをぜひ見守っていただければと思います。

三人之会 奥田
2023年8月17日脱稿

(以上の内容は、三人之会の第二回公演『逃亡』のクラファンを実施した時に書かれたものです)

(編輯 衛かもめ)


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