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「短編小説」聖母マリアは死なない 2

担当の部屋を全て整備し終わると、実花は私服に着替えるためにロッカールームに向かった。
「お疲れ様です」
「お疲れ様〜」
次々とノルマを終えた同僚達が帰って来る。
派遣のパート社員ばかりのこの仕事の平均年齢は高い。現役を退いて年金だけでは暮らせない女性が殆どだ。連れ合いを亡くしたり、離婚経験者だったり、それなりの苦労を背負った人達が、表は華やかなホテルの裏方作業をひっそりと背負っている
皆、それぞれに心に傷を持つ者達はお互いのプライベートを深く詮索しない。
実花は友人を作る気はないから、それもこの仕事を気に入っている要因の一つだった。

薄暗いロッカールームを出て、通用口からホテルを後にした。外へ出るとむっとするような熱風が身体に吹きつけられた。其処には、おびただしい数のエアコンの室外機が今日も忙しなく回り続けていた。建物の中を快適な温度で保つために熱い空気は外へ排出される。
「人間て、バカみたい…」
くしゃくしゃになった髪を手櫛で直しながら、実花は呟いていた。

ホテル近くにある遊園地のベンチに腰掛け、バッグからスマホを取り出した。実花のスマホに入るラインは決まっている。
高低差のある遊具から子供達の歓声が楽しそうに響き渡っていた。その中で実花は、さっき届いたラインを確認する為にスマホの画面を見つめた。
闇サイト『聖母マリア』から届いた仕事の依頼だった。詳しい資料は後日、宅急便で送られて来るらしい。
実花に断る理由はなかった。それにもうすぐ今の職場を去らなければならない。
「了解」
とだけ打ってスマホをバッグに突っ込んだ。



長く生きても何もいい事はなかった。家を出た初は隣村の空き家にそっと身を潜めて住み始めた。初めの頃、着物をくれたり野菜作りを教えてくれた村人達は、だんだんと歳を取らない実花を不審に思い始めた。
人の寿命が五十年と言われた時代だ。今のように良い化粧品やヘアカラーはなかった。女は直ぐに歳を取った。
その中で初だけは変わらなかった。
村人は、そんな初を「幽霊」だとか「おキツネ様の祟り」だと騒ぎ始めた。西洋で言う「魔女」扱いだ。
実花は花の成長をその家からそっと見に行くのだけが唯一の楽しみだったのに。
当時は今のように地下鉄もバスも車も、もちろんなかった。夜中に家をそっと抜け出して、歩いて清吉の長屋に向かう。そこで藁にくるまり朝が来るのをじっと待った。
朝になれば、花が井戸へ水を汲みに出て来る。十八になった娘盛りの花に全ての家事をさせるのは母として忍びなかった。でもおキツネ様との約束を初はずっと守っていた。
夜中に抜け出す初を村人達は、更に気味悪がった。何か村に不吉な事が起こるに違いない。
SNSの普及などがない、ずっと昔でも悪い噂を鵜呑みにして人の口は、一人の者を槍玉に上げ虐める習性は同じだった。現代と違うのは、普及速度と普及範囲だけに過ぎなかった。
ある日、清吉の長屋から歩いて家に戻ると初の家は無惨に焼き尽くされていた。黒い炭になった家の残骸からまだぷすぷすと煙が音を立てていた。
呆然と立ち尽した初の瞳からは涙さえ出てこなかった。おキツネ様の言葉の意味が、やっと一つ分かったと思った。
(花から離れなければ、私の存在があの二人を不幸にしていたんだわ)
十五年経って、初は花の命と引き換えに自分が孤独を受け取ったことを噛み締めた。
それ以来、花の姿を見に行く事も止めた。村を一人出た初はずっと孤独と共に生きてきた。

東京を襲った大きな地震、関東大震災も体験した。日本が起こした悲劇、第二次世界大戦での東京大空襲も。自然災害、人災、それから、それから……
でも、どんな事が起きても初は死ななかった。

孤独に耐えきれずに何度か自殺も試みた。
ビルの屋上から飛び降りたり、ホームに入って来る列車に身を投げ出したり、それでも初は奇跡的に助かってしまった。
おキツネ様はまだ初をお許しにならなかった。
350年間、初は孤独と共に生き続けた。


そんな或る日、初、いや実花は帰宅途中に火事を見つけた。夜の闇を照らすように燃え盛る炎の家の中から
「助けて、助けて〜」
叫び声を上げる小さな女の子の姿が見えた。
実花は、あの日燃やされた自分のボロ家を思い出した。咄嗟に家の中へ飛び込んでいた。
(大丈夫、私は死なない)
焼け落ちそうになる階段を上り、声のする部屋から女の子を抱え上げた。
「ママとパパは?何処?」
実花の質問に女の子は震えながら首を振った。
「いいの、いいの、お願い、助けないで」
その子の白く細い腕には古い痣や新しい傷が幾つも浮かんでいた。
虐待、毒親、DV、チャイルドアビューズ、ネグレクト…色んな言葉が実花の頭を駆け巡った。
火の粉を振りはらい、燃え上がる家から女の子を安全な場所まで連れ出した頃、やっと消防車が到着するサイレンの音が響いた。震える女の子はか細い声で言った。
「ありがとう、お姉さん。でも…」
「怪我はしていない?」
「うん、でも、でも、私が殺しちゃったの?パパとママ」
ああ、そうか。この子のとっさの心の叫びは一生、この子を苦しめるかもしれない。
「ううん、違うわ。もう、煙でパパとママは助からなかったの」
「でも…」
小学校低学年くらいだろうか。この子が背負う心の傷はいつか癒える日が来るのだろうか。
「いい?誰かに聞かれたら、知らないお姉さんが家に火を付けて何処かへ行っちゃったって言うのよ」
「だって、それじゃあ、あの火は、あの火は本当はねっ」
やっぱり…この子にこの先を言わせたくない。大人のエゴに付き合わされてきただけの子供に。
「いいの。お姉さんはそれでいいの。分かった?じゃあ、もう行くわね」
野次馬が騒ぎ出している中を実花は、うつむきながら足早にその場から立ち去った。

「パパとママ、二人、二人じゃ足りないわね」



つづく









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