「短編作文」それでも海が好き
「起きて!着いたよ、詩織、ねぇ、起きて」
「う〜ん、私、眠っちゃってた?」
詩織はシートベルトを外すとリクライニングを持ち上げた。車のフロントガラス一面にどんよりとした雲が立ち込めて見えた。
「なぁ~に、幸也?凄い物見せたいって言うから夜中に付いて来たのに酷い天気!」
幸也は
「もう少し待ってて」
と言うと今時珍しいセブンスターに火を付けた。
髪に匂いが付くから「もっと弱い煙草にして!」詩織が頼んでも一向に聞く耳を持たなかった。
精悍なマスクにサーフィンで鍛えたしなやかな身体つき、真冬になっても小麦色に日焼けした肌は色褪せなかった。
「遊び人ね、一年中真っ黒じゃない」
詩織は水着の痕が消えない幸也をよくからかった。
「海を愛してる!って言ってくれないかなぁ~」
「あ、そろそろ始まるよ、行こう!詩織!」
ハンドルに顎を付けて外を見ていた幸也が、煙草を揉み消した。
「行くって?」
「いいから、暖かくして付いて来て!!」
深夜に家を出発したのにどんよりと雲った空には朝が訪れようとしているのが分かった。
「幸也、いったい此処、どこ?」
「いいから、早く」
幸也は詩織の手を取ると駐車場から砂浜に降り立った。そのまま詩織を引っ張ってずんずん前を歩いて行く。
「ねぇ、幸也、雪が降って来たんだけど」
「うん、知ってる。ほら!」
幸也は立ち止まって、目の前に広がる海を指差した。
「うわぁ〜〜」
詩織の目の前に荒れ狂う灰色の海が広がる。その水面に雪が舞い降りていた。
ふんわりとした白い大きな粒は水面に落ち、ゆっくりと形を崩しながら海と一体化するように溶けていく。幾つも幾つも……
「この景色を詩織に見せたかった。天気予報で日本海側は雪になるって言ってたからさ」
「凄い!!」
「うん、凄いな」
「綺麗!!」
「綺麗だろ」
幸也は繋いでいた詩織の手に更に力を込めた。
「あそこが空と海の境界線」
ずっとずっと向こうを見つめて言った。
(それって水平線って言うんだよ、バカ)
「爺さんと婆さんになっても、この景色を二人で見ような」
幸也は細いリングに小さな石の付いた指輪をポケットから出すと繋いでいた手を外して、詩織の左薬指にはめた。
あのプロポーズの日を詩織は一生忘れない。
あれから何度も夏が来て、波に乗る幸也を海岸から眺め続けた。
どんなに沢山の黒いカラス達が波間に浮かんで居ても、詩織はたった一人の幸也を直ぐに見つける事が出来た。
そんな詩織を見つけると
「おーーい!」
幸也はいつも大きく手を振った。
夜になるとテントを張りBBQをした。
波がない日は穏やかな遠浅の海に移動して二人で海水浴を楽しんだ。
幸也の夏は、いつも海と共にあった。
「なぁ、詩織、俺は畳の上では死なないから」
「はっ?」
「うん、決めた!病院のベッドの上じゃ死なないよ~」
そう言っていた幸也は七年半の闘病の末にあれだけ嫌いだった病院のベッドの上で息を引き取った。
詩織はどんなに入院費用に困っても幸也のサーフボードだけは手放さなかった。
いつか、いつか、幸也が還って来た時の為に……
長い長い眠りから目醒めた時にボードが無かったら、どんなに彼が悲しむだろう。
今年もまた夏が来た。
詩織は車を走らせて海岸線の見える堤防に停めた。砂浜まで降りるとサンダル履きの素足に砂が熱かった。海の匂いが今年もまた詩織の鼻を突く。
「爺さんと婆さんになっても……か、嘘つき!」
風が詩織の長い髪を弄ぶようにはらんでいった。
詩織は左手に力を込めた。
あの時、幸也が握っていた左手。今も安い指輪が薬指に光る左手。
「空と海の境界線」
その向こうで、あの人は待っていてくれるだろうか。
夏の砂浜にはビーチパラソルが並び、子供達が浮き輪を持ってキャッキャッと海へ入って行く。
詩織だけが世界でたった独りのような気がして来た。
その時、黄色のビーチボールが詩織の足元に転がって来た。
小さな男の子が、そのボールを追い駆けて此方へ向かって来る。
詩織はボールを拾い上げると
「はい!」
男の子に手渡した。
「ありがとう!」
ニッコリと笑うその子に
「ねぇ、ボク、海は好き?」
と聞いた。
「うん!大好き!!おばちゃんは?」
「うん、私も大好きだよ!」
※亡き夫に捧ぐ
※IKKO様の素敵なお写真をお借りしました。
ありがとうございました。
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