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「日記」尖っていたい

今日は少し寂しい日、大好きなnoterさんがお休みに入られた。
仲良くなったつもりだけど、皆それぞれの事情を抱えているんだなと改めて真剣に気付かされた。
心の整理がついたら、いつでも帰って来てねと願う事しか私には出来ない。

だから…と言う訳じゃないけど、
今日は私の思いをぶちまけたいと思う(いや、いつもぶちまけちゃってるけど)

私は、ある日突然
あるnoterさんにブロックされた。何が悪かったのか、いや原因はあるんだろうけど分からない。

一つ一つ綴る記事の後ろには、血の通った人間が居る。少なくとも私は悲しかったし辛かった。
でも傷付けるのではなくて、傷付く事は良い事だよね?
心の傷が増える度にまた何かを書けると私は思っている(決してMではない 笑)と考えると、そのnoterさんは私に親切を送ってくれたのかもしれないね。


こちら側からは見えなくて、向こう側からは見えるnoteの仕組みに少し疑問を抱いたりもする。
まるでそっと盗聴されているような不快感がある(まぁ、見ていないと思う 笑)

あ、私がブロックすればいいの?
でも「やられたら、やり返す」ような真似は人としてどうなのかな?と思う。
そういう生き方を私はしたくない。


さぁ、ネガティブシンキングは、このくらいにしよう(苦笑)
タイトルに書いた「尖っていたい」は、自分に向けた言葉。
今、私は行き詰まっている。
ずっと書いてきた「姉さんの遺書」のたった一つのシーンが書けない為に次に進めない(泣)
それも「人間の何気ないしぐさ」を書くところで、物語の本筋には何も関係のない場所(苦笑)
でも、そこが書けないと私じゃないと思うんだ(生意気な女ですみません)


小説を書く上で、たった一つだけ私が大切にしている恩師の教えがある(あ、私だけだから他の人は気にしないでね)

「情景(場面)を描きなさい。情景が描けなかったら、それは『あらすじ』であって小説ではない」

中学生の時の先生だから、もう何十年も昔の考え方だと思う。
現代小説の中では、かなり古臭いのかもしれない。
でも音楽のクラッシックが残っているように夏目漱石がお札になるほど未だに読まれているように、ピカソが古典画を学んでから抽象画を描いたように、いつの時代になっても大切な基本は、あるべきだと思うんだ(物凄い人達を例えにしたのでビビリまくっています 笑)

そういうところだけは、尖っていたい。
妥協したくない。
周りに居る人達には優しく接したいけど、自分自身の内面は常に「尖っていたい」
尖っているから、磨けるんだ。
表面がザラザラしているから原石は磨けるんだ。
いや、もちろん私が原石なんておこがましい事を思っている訳じゃない(苦笑)

書く事へだけは、いつもひたむきに
削る箇所が「まだ」ある自分で居たいと願う。

さぁ、前を向いて!私。
筆を持って立ち上がれ(筆、持ってないけどw)
人にはまぁ〜るく、自分には刺々しく。
明日へ向かって走れ(雨降ってますけどw)

何を言いたいのか、分からなくなった日記(笑)
でもこんな支離滅裂な今の心境を語る日があってもいいじゃないか。

人間だもの
(みつを、いつも世話になってすまない)


                昭和っぽいキンキの歌が好き(笑)


※「石」の画像を選んでいたら偶然にも大好きな散歩さんのお写真だった。
お借りしたのに上下少しだけ載せられなくて、ごめんなさい。
ありがとうございます。





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