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声と手話とその狭間で

聴覚障害のあるわたしには、コミュニケーションモードが3つある。

ひとつは、音声。この日本という国で暮らしていると、やっぱり音声日本語を使う人が圧倒的に多いので。高校卒業まではこの音声日本語というコミュニケーションモードだけで生きてきたのもあって、これはわたしの第一言語。

もうひとつは、手話。これは、音声を伴わない方。大学に入ってから使い始めた手話も、気づけばもう10年以上わたしのコミュニケーションモードとして思考の言語としていつもそばに居てくれている。手話で受け取った情報は手話で思考することが多いので、ろう者同士でのコミュニケーションで使うことが多い。

そして、みっつめは音声を伴う手話。これは、文法が日本語寄りになっているので、言語としての手話というよりはコミュニケーションモードとしての手話。わたしはそれなりに補聴器機を使ってやり取りができるけれども、聞き漏らしもたくさんあるので。目に見える手段を補助的に使うことで聞き取れない音声を補完できるので、やっぱり手話があると安心してコミュニケーションができる。

当然だけど、キコエル人と一緒にいる時間が長くなればなるほど音声日本語を使う時間が長くなるし、ろう者と一緒にいる時間が長くなれば手話を使う時間が長くなる。どちらの方が良いなんて優劣はなくて、どちらもわたしにとって大切な言語なので、ちょうど良い塩梅でどちらも大切に生きて行けたらいいなぁとそんなわがままな気持ちで生きている。

でもまぁ、そんな良い塩梅なんてなかなかなくて。唯一補聴器を外した状態で一緒にいることがある好きな人はちょぴっと手話ができるので、そのときに音声を伴う手話をすることがあるけれども、最近は音声日本語に偏りがちな日々。

だったのだけれども、GWに帰省したら会う友達みんな手話ができたので、毎日手と口で喋る一週間を過ごしてきた。

キコエル友達が3人、補聴器を使う友達が2人。補聴器の友達のうち一人はろう者だったのでこの日は手話オンリーだったけれども、会う友達みんな音声と共に手話も使っていた。

連日予定を入れていたら疲れちゃうかなぁとかも思ったけれども、実際に一週間過ごしてみてそんなに疲れていない自分がいて。連休に会ってくれるような気心の知れた仲だということはもちろんそうなんだけど、会話をしていて分からないというタイミングがほとんどないというのはとても楽だなぁと思った。

ちなみにわたしは自分声でも聴き取れていない音域があるので、例えば子音のK・S・Tあたりの発音がうまくできない。たぶん、わたしが聴覚障害者で補聴器ユーザーだと知っている人が聴けばまぁまぁ上手な発音だけれども、普通の人だと思って聴くと、滑舌が悪い。

自分でもそれは自覚しているから、苦手な発音の単語はなるべく避けるようにしている。それこそ好きな人の名前は【名字+さん】読みすると確実に発音できないので、付き合う前から下の名前で呼んでいた。

そういう言い換えが要らない分、音声をともなうと稚拙な表現になってしまう場面もあるから手話だけで話したり文章で表現したりするときの方が若干大人っぽい……というか年齢相応の話し方に見えるらしい。

と、わたしの手話だけで話す姿も声だけで話す姿も見る友人が言っていた。音声だけで話すと、幼く見えるらしい。おもしろいよね。

そういえば、バイリンガルの人たちも言語ごとに人格がちょっとずつ変わると聞いたことがある。ちなみに彼は、「手話を使うときは性格が悪くなる」らしい。理由は、声に出せないような周りの人たちの会話を通訳したり道ゆく人たちの人間観察の結果を手話で表すことが多いから。おいおいおい。真面目な議論も手話で楽しもうよ……とは思うけれども、そういうときはちゃんと静かな場所を選んでくれるのである意味お耳には理解のある人なんだろうな。まぁいいか。

そんなわけで、どんな場面でも、手話で話すわたしも、音声で話すわたしも、わたしはわたし。そしてそんなわたしのありのままを「おかえり」と迎えてくれる人たちがいる場所があるって本当に幸せなことだなぁと思う。

そしてなによりも、キコエルとかキコエナイとか関係なく、会う友達みんな手話ができる世界線ってすごすぎない?この世界って、わたしの想像以上に手話ができる人で溢れているんじゃないかしら?と錯覚を起こしたけれども、カントーに戻ってきて数日、それはやっぱり錯覚だと気付き始めている日々です。

今日もよく聴きました。わたしのお耳、お疲れ様です。


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