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聴覚障害者のわたしが、選挙に行くワケ。

週末はポカポカ陽気だったので、朝から洗濯をして、投票所まで歩いて選挙に行ってきた。わたしの家からは期日前投票の会場の方が近いから、選挙のたびに「昨日までに行ってくればよかった……」と思いながらちょっと遠い公立幼稚園に向かう。

思い返せば、わたしの30年も生きていない人生において、政治に一番興味があったのは高校生のとき。政経の先生が毎週時事問題の小テストをするもんだから、毎日夜のニュースを見てはあれやこれやと考えていた。

大人になってからはテレビも持っていないし新聞もとっていないので、LINEに数社のニュースが届くよう設定している。でも、めんどくさいのでだいたい流し読みしてしまう。トピックスだけは追うようにしているんだけれども。

さて。今住んでいる地域には、特に知り合いの立候補者もいないし、特別応援している政党があるわけでもない。そんなわたしの投票の決め手は「わたしたちの声をより代弁してくれそうな人」

わたしたちと言っても
・女性
・若者(まだ、良いよね?)
・障害者
みたいに、属するカテゴリはたくさんある。最近は、女性の候補者も増えてきたし、同年代の候補者もいるし、障害者福祉に重点を置くとの言葉もよく見かける。

それでも、駅前でやっている演説は音声だけのものも多く、わたしたち聴覚障害者は何を言っているのか分からないことの方が多い。内容がというより、根本的に話している言葉が聴き取れない。もちろん、わたしたちの話す手話もあの候補者たちには読み取れないだろう。そういう候補者が選ばれたとして、わたしたちの声は届くのだろうか。

わたしは幸い日本語を読むことが苦ではないので、ポスティングされた選挙広報を読んで投票する人を決めることが多い。あと、街頭演説に手話通訳をつけている人や議会で手話を使ったり実際に聴覚障害者の情報センターに足を運んでくれた候補者へ。

一方で、聴覚障害者のなかには日本語が苦手な人もいて「分からないから」と選挙に行かないことを選ぶ人もいるときく。でも、それでいいんだろうか。

と同時に、日本語が苦手な聴覚障害者に参政権を諦めさせてしまっている現状にがっかりする。政治に参加したくても言語が理由で諦めてしまう、そういう人は議会制民主主義の世の中でらひとりでも少ない方が良いと思う。

特に、災害なんかが起こると、わたしたち聴覚障害者はなかなか情報を得ることができない。キコエル人たちは、咄嗟のときに音声ばかりだから。阪神淡路大震災のときも、東日本大震災のときも、情報を得られなくて亡くなった先輩や避難所で支援物資を受け取れなかった先輩たちの話を何度も何度も見てきた。

みんな、障害者だからと差別をされていたり意地悪をされていたわけではないと思う。たぶん、周りの人たちが「ここにキコエナイ人たちがいるかもしれない」と気付かなかっただけ。手話を知らない、障害者が身近に存在することを知らない、そういう人はたくさんいる。

その人たちが悪いわけではない。だって、ただの経験不足だもの。

だからこそ、「この街には聴覚障害のある人がいるかもしれない。手話を必要とする人がいるかもしれない」と気付ける人が政治をしてくれたら、その存在に気付いてもらえるチャンスや手立てが増えるかもしれないと希望を持てる。

有事のときだけじゃなく、普段の生活でも「こういう視覚情報があったら嬉しいな」という場面はある。議会も裁判もたとえ公開されていても、通訳がいないから、文字通訳がないから、わたしたちは気軽に見に行こうとはならない。

わたしたちもキコエル人たちと同じように参政権をもっているのだから、それを知る権利はある。きっとわたしたちが「こういう場面では通訳が欲しいです」とひとつひとつお願いしていけば、いつか通訳があることは当然の世の中になるかもしれない。音声認識ソフトも性能が良くなってきているし。

でも、それらを実現させるには、より寄り添ってくれそうな人を擁立しないといけない。それが、選挙なんだろうなって。

わたしの一票で、この国や住んでいる地域が大きく変わることはないかもしれない。それでも、わたしたちのことがわたしたち抜きで決まっていかないように、より生きやすい未来を後輩たちに手渡すために、これからも一票を投じ続けるんだと思う。

投票終わりのチョコレートのソフトクリーム、最高においしかった。

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