8月15日が永遠に「アレはむかしのことよ」であり続けますようにと。
8月15日、終戦の日。
わたしたちの生まれる、何十年も前。世界のどこかの国で起こっているようなあの、センソウと呼ばれるそれが、この日本でも起こっていたらしい。幼い頃から、夏になるとテレビではジブリアニメ『火垂るの墓』が放映され、ひいおばあちゃんと一緒にお寺に行くと和尚さんが戦争の話をして皆が神妙にきいていた。それでもわたしにとってのそれは、『かぐやひめ』や『たなばた物語」と同じような昔話のひとつのようで。
多分あれは、小学校中学年くらいのことだと思う。おじいちゃんの家に泊まりに行ったとき。夜になるとお仏壇の上に飾ってある写真がわたしのことをじっと見つめているような気がして怖くて怖くて、おばあちゃんに「ねえ、あの写真はなんで飾ってあるの?」と尋ねた。
すると「これは、わたしのおばあちゃんでね」と。おばあちゃんのおばあちゃんというその人は、わたしの母が小さい頃にこの家に住んでいたらしく、昔の写真を見せながらその人のお話をしてくれた。小さい頃の母と叔父に挟まれて嬉しそうなおばあさんのその顔とお仏壇の上からわたしを見つめるその顔が同じだということを知って、ほっと一息。
それで「じゃあこの人は?おじちゃん?」と尋ねると、家族中が大笑い。その人は、叔父さんのおじいさん。つまり、わたしのひいおじいちゃんだったというわけ。それがね、おじさんと瓜二つの顔をしているんですよ。まぁ、血が繋がっているのだから似ていて不思議はないのだけれども。あと、ひいおじいちゃんなのにシワひとつない端正な顔立ちで。
「おじいさんっぽくないね」と呟くと、「ひいおじいちゃんはね、戦争で死んでしまったのよ。だから、さんまりちゃんがひいおじいちゃんに会ったことがないのと同じで、わたしもお父さんに会ったことが一度もないのよ」と寂しそうに教えてくれた。
それから毎年、8月がくるたびにおばあちゃんがぽつりぽつりと教えてくれたのは
戦死したおじいちゃんの面影を追い続けたおばあちゃんと、結婚してからたった数ヶ月の思い出と共にシングルマザーとして生きてくれたひいおばあちゃんと、戦没者等の遺族に対する特別弔慰金が繋いでくれて、今のわたしがここにいるということ。戦争は、昔話やおとぎ話じゃなくて、わたしたちの歴史を語る上で絶対に外せない身近な問題で。
おばあちゃんは、8月になるたびに戦争を取り上げた特別番組を観ながら「わたしのお父さんもこの景色を見たのかもしれない」と必死に画面を見ていた。その横でひいおばあちゃんは、何も言わずにじっと座っていた。彼女は、もともと口数の少ない人だった。でも、とかく戦争のことについては「アレは、昔のことよ」としか言わなかった。
おばあちゃんは、何度もわたしを隣に座らせては「ひ孫にも教えてあげようよ」とわたしを理由にひいおばあちゃんへ戦争のことやひいおじいちゃんとの思い出を語らせようとしていたけれども。この話題については、絶対に語らなかった。どこか遠くを見て、いつもは見せない険しい表情をして「アレは、昔のことよ」としか言わなかった。
それくらい、彼女の心を大きく傷つけるものだったのだろうということは、幼いながらにもなんとなく理解できて。それでもひいおばあちゃんが何も語らない物だから、おばあちゃんは遺族会がフィリピンへ訪問する際に参加者として渡航した。それくらい、本当に本当にお父さんの面影を求めていた。
8月がくるたびに、戦争特番を食い入るように見るおばあちゃんと、黙り込むひいおばあちゃんと、お仏壇の上に飾られた証明写真のような姿のひいおじいちゃんの顔が、思い出される。語りたくない思い出と、追い求めた面影と、たくさんの年月の全てが積み重なって、今ここにわたしがいる。
センソウは、アレは、戦争は、繰り返されてはいけない。そう、空気で教えてもらえたのは、わたしたちの世代がきっと最後。彼女たちと20数回の8月を過ごしてきたからこそ、何がいいとか悪いとかそんな簡単な言葉では表せない。8月15日はずっと「アレは昔の話よ」のひと言でしか表せないくらいおもいおもい、そんな日で。
せめて、言葉にできないあの表情たちを、写真や映像に残しておけばよかったな……と見つめた実家のお仏壇の上には今、ひいひいおばあちゃんと、ひいおじいちゃんと、ひいおばあちゃんと、おばあちゃんと4人のお写真が並んでいます。もう怖くない。みんなみんな、今のわたしをここに生かしてくれた大切な人たちだから。
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