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きこえにくいからこそ、「そこに行きたい」ただそれだけの理由で空を飛べるのかもしれない。

世界を旅するたびに、ふと感じることがある。わたしたち聴覚障害者にとっての海外旅行って、日常生活の延長でしかないんじゃないか、と。

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わたしは自分のきこえを説明するときに、よく海外旅行を例に出す。

「わたしの耳は全く聞こえない訳ではありません。音としていろんな音は入ってくるけれど、相手の声を【言葉】として認識する点で困り感があります。

例えるなら、あなたがアラビアの国にポンと送り込まれて、アラビア語の嵐を耳に入れ続けるようなものです。音として耳には入ってくるけれど、言葉としてなんと言っているかは理解できないでしょう?

わたしはそれが日本語でも起こっています」

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何日かすると、「こんにちは」「ありがとう」「これ、いくら?」のような簡単な日常会話くらいは交わせるようになるかもしれない。

確かに、わたしたち(少なくともわたし)は、ある程度の生活経験でレジに行けば「袋はいりますか?」ってきかれたんだろうな……くらいの想像はできるようになるし、それはあながち当たっている。

それでも、生活の節々で聞き取れなくて、「みかんジュースをください」とお願いしたのに全く同じ値段の「すいかジュース」が提供されるようなことが日常茶飯事だ。

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例えば日本人が海外旅行に行って、やっぱり言葉が通じない経験を重ねたとき「日本に帰って生活をする」という選択肢が脳裏をよぎる瞬間があるだろう。

お腹が痛くて病院に行ったとき、財布もパスポートも入ったバッグを盗まれてしまったとき……

日本の病院に行けば日本語で診察を受けられるし、日本の警察に行けば日本語で事情を説明できる。

じゃあ、私たち聴覚障害者はどうだろう。

いくら手話が堪能でも、いくら筆談で日本語を理解できる能力があったとしても、手話で医療を受けて、手話で買い物をし、手話で裁判を受けて、警察に行くという世界は、今のところ存在しない。

逆に考えると、常に海外旅行をしているような状況であって、それが日本だろうとアメリカだろうとロシアだろうとアラビアのどこかの国だろうと、そんなに大差ない。

日本にいたって聞こえる人たちの音声を音声認識ソフトで字幕化させているこのご時世。海外に行けば、iPhoneのカメラをかざしてある程度の単語は自動翻訳できてしまう。

音声認識ソフトだって完全なものではないし、それを補う読唇だって100パーセントではない。だから、iPhoneの自動翻訳が途切れ途切れの翻訳になったって普段と同じように知っている情報や目に見える情報から補完していく。

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実際に海外に出てみると、聞こえる人たちもその国の手話ができるなんて場面に遭遇することも少なくはないし、筆談には今のところどの国でも快く応じてもらっている。

「聞こえにくいから」という理由で海外旅行に不自由することって実はそんなになくて、あるとしたら飛行機のアナウンスが聞き取れないから墜落しそうなときに避難しそびれる恐れがあることくらい。

海外旅行というと二の次に「コミュニケーションの壁」なんて単語を目にする。でも、わたしたち(少なくとも、わたし)にとって海外旅行のコミュニケーションの不便さは日本にいるのとそんなに変わらなくなってきている。

ただ単純に「この景色を見たい」「これを食べたい」「ちょっと息抜きに、今住んでいる場所から飛んでいきたい」それだけの理由でふらっと国をまたいでいた、そんな気がする。

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またひょいっと空を飛べる日が来たら、何を見に行こう。筆談用のメモ帳のページを重ねながら、息をしていきたい。

この夏引っ越してきたこの家は、前の家より格段と成田空港が近くなった。




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