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「圧」〜語りを拒む音楽

俺と音楽との関わりにおいて重要なもの、それをひと言で表すならば「圧」という語に尽きる。美しさでも楽しさでもない。もちろん、超絶技巧や格好良さとも違う。

「圧」だ。

前にも書いたことがあるかもしれない。初めて音楽というものに興味を持ったのは、中島みゆきの『空と君のあいだに』を聞いたことがきっかけだった。彼女の曲が主題歌として使われていたテレビドラマ『家なき子』の迫力も子供心には相当なものだったが、凄絶な物語に沿うように投げつけられる詞と歌声に、俺は圧倒され恐怖さえ覚えた。
それまでも音楽が嫌いなわけじゃなかったのだけど、「歌」というものへの眼差しが一変したのはその時だ。魂を揺り動かすような言葉と声とを求めて、十代だった俺は中島みゆきの歌に耽溺していく。

爾来、俺を音楽へと駆り立てるのは「凄み」への渇望だ。お洒落さ、格好良さ、癒やし……そんなものは枝葉に過ぎない。頭を殴打され、胸ぐらを掴んで魂ごと揺さぶられるような感覚をもたらす音楽、そうしたものに出逢うことこそが至上の体験なのだ。

俺が大学でフォルクローレに熱中した背景にも、おそらくは音楽がもたらす「圧」への渇望があった。
文明の起こりから脈々と受け継がれてきた音楽には、人間が原初から備える単純な衝動、複雑な悲哀といったものが生々しく織り込まれている。それをアンプラグド演奏で、声帯や共鳴管が空気に与える振動のみで世界に発するのだ。そこにあるのはもう、観念や様式美を超越した野蛮な物理的衝撃、一種の甘美な暴力と言うほかない。
だからだろうか。フォルクローレをやっていると何よりも重視されるのは音の大きさ、太さだ。いや、もちろん繊細な美しさを持つ楽曲だってあるのだけど、表面上の美だけを取り繕っただけの芯のない演奏は、少なくとも俺達の周囲では軽蔑の対象ですらあった。強く太い音が出せてなんぼの世界。それができて初めて、しっかりと芯の通った繊細さが醸し出されるのだと。

このような音楽のあり方はまさに粗野そのものだ。洗練よりも迫力、繊細さよりも豪放さ、癒やしよりも陶酔が求められるのだから、それは人間よりもむしろ獣の方に近い営みだと言ってもいい。
一方、文明は人間を獣性から、自然から隔離する試みを通じて発達してきたものでもある。だから、時代が下るのに伴って音楽から「獣臭さ」や「土臭さ」といったものが失われていくのもある意味では当然の流れなのだろう。
音楽は今やアンプとスピーカーを通じて増幅された音を聞くものになり、フィルターやコンプレッサーが原音の輪郭を削ぎ落として整形すべく介入する。リリースされる音源のほとんどはピッチ補正などの処理を施され、演奏者の不完全さや昂ぶりの影は「聞きづらいもの」として一掃される。ミキシングやマスタリングなどの編集作業の巧拙はもはや、楽曲への評価を左右する大きな「音楽的要素」の一つだ。
音楽を文化的な営み、あるいは芸術として捉えたとき、表現技術の発達や聞き手の嗜好の洗練は不可避的、不可逆的な現象ではあるのだろう。原初の音楽が持つ野性を絶対視し固守することは、単なる懐古主義への埋没に過ぎない。そうした音楽観の存在自体は理解できる。

ただ、その結果なのか、「圧」を感じさせる音楽は少なくなった。
この変化が音響技術などの環境的な要因によるものなのか、単純に表現者の技量や哲学に起因するものなのかはわからない。おそらくはその両方なのだろう。
確かに、最近の音楽は洗練されていて、音質もクリアで、複雑な旋律やリズムが多用されていて、奏者にはそれをこなすだけの技量がきちんと備わっている。何より、格好いいのはよく分かる。
けれども、俺が中島みゆきやフォルクローレに出会ったときのような「圧」を感じることはほとんどない。それは単に、当時の感性の瑞々しさがたまたま出逢った音楽に対して鋭敏に反応したというだけの話なのかもしれない。あるいは、昔を美化する懐古主義に堕しているだけなのかもしれない。

ただ、いずれにせよ「圧」が感じられないというそのことが、俺の気持ちを音楽から遠ざけつつあるような気がする。

バンドで演奏しているのなら「圧」を感じられるのでは、と思うだろうか。
残念ながら、音楽のもたらす「圧」と「音圧」とは似て非なるものだ。
もちろん、「音圧」は物理的な振動を通じて俺達の身体に「圧」を与える潜在的な可能性を持っている。けれども、単にアンプのゲインやボリュームを上げれば「圧」が強まるかというとそうじゃない。それは、出力的にははるかに微小であるはずのアンプラグド音楽からも強烈な「圧」を感じ得ることからも明らかだ。たとえば、ジョン・ケージの『4分33秒』などは、俺にとっては強烈な「圧」を持って迫ってくる「音楽」だと感じられる。
つまり、ただ楽器を奏で、声を出し、その振動に身を晒すだけでは「圧」は感じられない。

じゃあ、「圧」とは何なのか。

思えば「圧」という言葉自体、俺達は明確な定義を意識して使っていない。ただ何となく、近寄ったり気安く口をきいたりするのが憚られるような迫力、訴えかけられて何かをしなければならないような気にさせられる説得力、そうしたものを指して雰囲気で「圧」と呼んでいるに過ぎない。
けれどもその事実こそが、逆説的に「圧」なるものの正体を示唆しているとは言えないだろうか。すなわち、あらゆる言葉や分析を拒むような力。何かを見聞し、そこに語り得る言葉を見出せないとき、俺達はただ「圧」を感じるとしか言えない。そういうことじゃないだろうか。
たとえば、歌や伴奏の音程が外れていたりするとき。俺達が「音を外した」と感じるのは、そこに「あるべき音程」のイメージがあるからにほかならない。そして、彼我の差異を量り取ることで俺達は「音を外した」という感想を抱く。
つまり、その背景にあるのは一種の分析作業だ。そこには「正解」と「間違い」とがあって、間違いの数の少なさ、すなわち演奏の正確さが意識の中で測定される。測定されるものは語られ得る。ゆえに、そうした意識で音楽を聞いている限り、そこに「圧」は感じられないのではないか。
逆に言えば、「圧」を感じさせる音楽とは音程の正しさとか、音色の作り方とか、発声の技巧だとか、そうしたものを意識させる以前に俺達の心を揺さぶり、音そのものへの感応に引きずり込む力を持つものだ。言葉を変えれば、「そうでしかあり得なかった音」とでも言えるだろうか。

俺達は時として「拙いけれど心を揺さぶる、説得力のある音楽」を耳にする機会を得る。上記のような考え方に拠るならば、拙さというのは「圧」をもたらす大きな要素の一つだと言えるだろう。
たとえば、音程の変化が複雑だったり音域が広すぎたりして、歌い手の自然な声域や技量によっては十全に表現し得ない楽曲というのがある。そんなとき、彼または彼女はしょっちゅう音程を外すだろうし、高音域が出せなくて声が掠れたり裏返ったりするかもしれない。
でも、本人はどうしてもその曲を歌いたい。歌わなければならないと意を決する強い理由がある。そうしたとき、その歌のパフォーマンスは歌唱の拙さも含めて「そうでしかあり得なかった音」になる。もちろん、上手く歌えるようにもっと練習すべきだとか、自分の実力に見合った歌を選ぶべきだといった批判はあり得るだろう。けれども、その人にとってはその時、その歌を歌わなくてはならなかった。理屈ではなく、そうだった。ならば、聞き手としてはその歌をそのように聞くしかないのだ。そのようなとき、歌唱の技量や音程の正確さを云々することは全く無意味である。
もっとも、下手ならば「圧」を感じるというわけじゃない。単なる練習の不足、自身の技量の過信に由来する拙さが醸し出すのはただの軽薄さだ。「そうではない何かであり得た」ような音楽に、人の心が揺さぶられることは無いだろう。それはただ、煩わしい騒音に過ぎない。

「圧」というものを全ての音楽愛好家が求めているのかと言われれば、必ずしもそうではないだろう。「圧」は決して音楽が与える最上にして唯一の体験ではない。あくまでも、俺達の鑑賞意識が向けられるべき美点の一つに過ぎない。
社会における人間関係で友達のような気安さが好まれ、「圧」を感じさせる人間が煙たがられるようになったのと軌を一にするように、音楽にもまた肩肘を張らず気軽に聞けること、アーティストの存在が等身大に感じられることが求められているような気がする。今やほとんどのアーティストがSNSを通じて生身の、等身大の姿を積極的に開示するようになった。大規模なコンサート会場の一隅で米粒のようにしか見えないスターの姿を血眼になって追い、それでも普段は目にすることのできない伝説的存在との邂逅を幸せに思う……そんな音楽体験はもう過去のものになりつつあるのかもしれない。

それはそれでいいことなのだろう。
俺自身、人間関係において他者から受ける「圧」はとても苦手だ。
ただ、だからこそ音楽を聞くといった体験、自分が受け身一辺倒の立場に身を置くことが許される機会ぐらいは「圧」を欲する心があるのだろう。

だから、「圧」が失われていくことにはどこか寂しさがあるのだ。

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