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真実に目を曇らされてはいけない

先日、映画館へ是枝裕和監督の『怪物』を見に行った。
ネタばらしになるのも何だかだし、それ以前に映画の凄みは既にそこかしこで語り尽くされているので、内容についてここで詳しく述べることはしない。映画への素人感想を語りたいわけでもない。

ただ、その日を境に世界の見え方が少し変わった。
「真実」は一つとは限らない。ただ一つのものとして目に映っているかのように思われる世界は、実はいくつもの「真実」が交絡する網の目のようなものなのだと。


感覚器官で受容された光や音といった刺激は脳へ運ばれて処理される。ただ、認知される世界は刺激の物理的状態が単に反映されたものじゃない。視床を通過し大脳の感覚野で処理された情報はさらに連合野と呼ばれる領域へと運ばれ、他の様々な情報と統合されつつ修飾を施された形で俺達の認識へと立ち現れる。(そうでなければ目の前の世界は上下左右が逆さまに見え、高速で揺れ動いているはずだ)
受容される刺激が同一であっても、情報の修飾過程が異なれば世界の認識に個人差が生じてもおかしくはない。

さらに、俺達は世界の認識に際してある種の物語を付随させずにはいられない。
机の上に消しゴムが置かれているなら、それは俺達にとって単なる物理的事実以上のものではない。消しゴムがシャープペンシルや付箋に置き換わったところで俺達の感じ方に大きく変わりはないだろう。だが、机の上にくさやの干物が裸で放置されていたら?きっと、「どうしてこんなものがここに?」と思わずにはいられないはずだ。
置かれているのが消しゴムであれ干物であれ、何かしらの物体が机に置かれているという点だけ見れば、二つの現象の間に大きな違いはないはずだ。実際、消しゴムとシャープペンシルとの間に劇的な差異を認める人は少ないだろう。どちらの存在も違和感なく認識され、多くの場合は意識されないまま素通りされる。
じゃあ、消しゴムやシャープペンシルの存在と、くさやの干物の存在とが等価のものとして感じられないのはなぜなのか。それは、俺達が干物に対して「本来そこにあり得べからざるもの」という認識を持つからだ。つまり、俺達は「あり得べからざるものがそこにある」という物語を現実認識に付随させている。仮に、消しゴムやくさやが置かれているのがスーパーの干物売り場なら俺達の印象は反転するはずだ。また、消しゴムも干物も見たことがない人にとっては、両者の存在は置換可能な等価物として映るかもしれない。
では、認識される世界に物語が付随するのは机の上に干物が置かれているような極端な場合に限られるだろうか。いや、そんなことはない。机の上に消しゴムが置かれていて、俺達がその現実に特段の注意を払わないようなときだって物語は発生している。それは「あり得べきものがそこにある」という物語だ。その消しゴムは直前にペンケースから取り出されたものかもしれないし、誰かに借りたまま置きっぱなしになっているのかもしれない。いずれにせよ、そこに消しゴムが存在することに違和感がない文脈を想定するがゆえに、俺達の認識は物語におけるモブと同じように消しゴムの存在を素通りすることができるのだ。

だから、俺達が「真実」について語るときは、単に物理的な世界のあり方だけでなくそこに付随する物語を含めて語っているのだと言える。いや、むしろ物語を語らなければ意味が無い。
ウクライナのダムが破壊された事件について多くの人が「真実」を求め争っているが、物理的な認識のレベルに留まるならば、言えることは「今そこに崩れ落ちたダムがある」という事実だけだ。それだけなら、ちょうど目の前にあるのが生きている木ではなく枯れている木であるという事実を述べることとそう変わりはない。
けれどもこの事件の「真実」をめぐって言説が紛糾しているのは、「誰が何のためにダムを破壊したのか」といった背景や、「ダムが破壊されたことで周辺住民が大きな被害を蒙っている」という災禍の継起が看過できない重要性を持つと感じられるからだ。誰かが何かを思ってある行為をはたらき、それが他の誰かの人生や世界に影響を与える。そうした因果の連なりが物語であり、俺達はまさに「どのような物語が描かれるべきなのか」をめぐって争っているのだ。

残念ながら、物語に「正解」はない。そこに認められるのは「共感」のみだ。もっと言うなら、俺達は世界を認識するうえで「どの物語に共感するか」という選択に絶えず晒されていて、その選択は自発的でもあり得れば、文化や共同体が要請するものでもあり得る。
先日、トランプ前大統領が機密文書の持ち出しなど37件の罪状で起訴されて話題になった。トランプ氏を嫌う人の多くは起訴を当然とみなして支持する一方、トランプ支持者は一連の捜査や起訴を民主党による司法権力の濫用と見る。トランプ氏の別荘であるMar-a-Lagoで機密書類が発見されたという事実自体は誰もが認めるところだろう。
問題は、それらがなぜそこに存在するのかだ。機密文書が何らかの形で、何者かの思惑から持ち出されてトランプ氏の別荘にたどり着くまでの物語を人々はめいめいに紡ぐ。ほとんどの人は、少なくとも警察や司法関係者ほどには当時の状況を調べもしないし、様々な証言との整合性や証言自体の確かさといったものに意識を払うこともない。トランプ氏の過去の言動、それらに対する自身の思いといった文脈を背景に、「たぶんそうだろうな」と憶測する。
いや、司法だってそれ以上のことはできない。過去に遡って出来事の一部始終を見聞することが可能でない限り、有罪か無罪かは様々な状況証拠や証言から「その物語が腑に落ちるかどうか」によって判じるほかない。ゆえに判決が出されたとしても、それが議論を終結させることはないだろう。有罪ならトランプ支持者が、無罪ならそれ以外の人々が誤った判決だと感じるはずだ。それは裁判所が描く物語が自分たちの描くそれと異なっており、「共感」できないからにほかならない。

このように考えると、「真実」を明らかにするという一見高邁な試みは危うさに満ちていると言える。それは、ある事実にまつわる複数の物語の中から一つを選び取り、多くの人に「共感」を迫る行為にほかならないからだ。
冒頭に述べた『怪物』の物語では、一つの出来事が複数の視点から三度語り直される。最初、見る者はそこに「真実を明らかにしたい者」と「真実を隠しておきたい者」というごく単純な対立構図を認めるのだが、視点が移されることによって「真実を隠しておきたい者」もまた己の「真実」を理解されない苦しみにあることを知る。そしてさらに出来事が語り直されたとき理解するのだ。俺達は決して「真実」を知り得ないということを。ある出来事の周縁には居合わせた人それぞれにしか見えない世界があり、その全てを知ることは不可能なのだと思い知る。物語が第四、第五の人物の視点から語り直されたなら、そこにはまた新たな「真実」が立ち現れてくることだろう。
したがって、世界というものは本質的に無数の物語が交錯する場にほかならない。その中で物語同士は互いを引用し、時に都合よく改竄を加えつつ変容することを止めない。その意味で世界は一つではなく、不定でもない。見る立場によって、場面によって細かく姿を変え続ける。俺達が世界だと認識しているものは、実のところ「大体こんな感じだよね」と人々の間で共約された大雑把なイメージでしかなく、細部まで目を凝らせば必ず個々人の描く世界には不一致が生じるはずだ。
「真実」を明らかにするとはそうした大雑把な世界認識を認めず、公式の物語を一つ定めることを意味する。それは「トランプ対反トランプ」の図式に見られるように政治的な思惑が駆動する試みになるかもしれないし、ウクライナへの攻撃を「正義の戦い」として物語ろうとするプーチンが試みるように言論弾圧として生じるものかもしれない。いずれにせよ、ある物語が唯一の聖典として定められるとき、他の物語を排除する暴力が発生することになる。それは物語がいかに善良で穏当で倫理的であろうともだ。

「Post-truth」という言葉が人口に膾炙してもう暫く経つが、「真実」の軽視への警句という本来の意図に反し、この言葉、ひいてはそれが表す世相というものは皮肉にも「真実」への盲信を戒める響きを秘めているように思われてならない。
トランプ支持者が語る「真実」があり、反トランプ派が語る「真実」がある。ロシアの語る「真実」があり、ウクライナの語る「真実」がある。おそらくは、そのどれもが字義通りの「真実」ではない。人間は互いが決して知ることの叶わないエピソードの正当性をめぐって争い、「異説」を排することによって「真実」を打ち立てるのだ。
そして、俺達は自分が「共感」できる物語に与することで安心感の得られる世界を構築しようと試みる。おそらく、この性向が完全に改まることはない。誰からも「共感」を得られない物語を語る者は、ある意味で「社会」に存在しないに等しいからだ。

だが、「真実」を知りたいと思うとき、あるいは「真実」を主張しようとするとき、俺達は見えないところに張り巡らされた物語の数々を黙殺せんと欲しているのだということぐらいは意識しておいてもいいだろう。

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