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経験値は子育てに必要なのだろうか?

親としての悩みについて

久しぶりに落ち込んでしまった。深く深く考えた。妻から我が家の子どもが、ボクのコトバに敏感になっていると聞いたので。

たとえば、転ぶと分かっているのに塀の上にのぼり、案の定、転んでしまう。我が子にとっては、いい経験だ。子どもは実際に体感してみないと納得しない。ケガする。痛い。次は、どうしようか。それらは、貴重なコトだと思う。それなのに、ボクの一言が我が子の行動を制限してしまっているとは。

まさか、ボクが……

我が子を邪魔してしまっているのは、ボクの経験だ。塀にのぼれば転んでしまう。それを知っているから転んでしまうと、ついつい出てしまう。
「ほら、言ったとおりでしょう!」
「そうなるんだよ!(転んでしまうんだよ)」
無意識に我が子を縛ってしまっていた。

怪我をしてほしくないから親として一言を発していたが、我が子はそう受け取っていなかったようだ。たしかに、「言ったとおりでしょう!」と言われれば、オトナとしても気持ちがいいモノではない。

トライするからエラーが生じるわけで、トライしないことの方がもったいない。そう思って過ごしているのに、いつの間にか我が子の障害になってしまっていた。

親としての勇気と覚悟

もちろん、大怪我のリスクがあったり、たとえば道路に飛び出して車にひかれそうになったら、それは強いコトバで指摘しないといけないけど。それ以外のコトでは、なるべく口を出さないように心掛けたい。

ダイニングテーブルのイスとイスとをまたいだり、明らかに滑ることが分かっているところを走ったり、オトナとして、経験があるモノとして、ある程度の先が読めているとしても、そこはグッとこらえて、やらせてみる。その勇気と、自分の覚悟が、これから我が子と向き合っていくのには必要な要素だなと感じた。

ボクらオトナは知っているから先回りができる。予想が立つ。でも、予想はあくまでも予想でしかない。予想外にいいコトが起こる可能性だってある。さきほどの塀の上にのぼって歩くことだって、できる時もあればできない時もある。できる年齢があれば、まだ早いという時期もある。

少しだけ長く生きているからといって、したり顔で「言ったでしょう!」「ほら、そうなるんだよ!」は禁止にしようと思う。可能性の芽を育むのが、我が家の基本方針です。そんなことを園の先生に話した自分のホホを叩いてやりたい。真逆の芽を摘むようなことをしているからだ。

子育てルーキーとして、もっと謙虚に、先輩面なんかせずに。しっかりと我が子と対していきたい。

おもいのままに。続けます。今日も呼吸ができた。ありがとう!

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