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「夢幻回航」1回 酎ハイ呑兵衛

その夜は、月が血のように真っ赤に滾っていた。

風は無く、夏だというのに、空気は妙に冷たく感じられた。

空は赤い月明かりで照らされて、真っ赤な雲で覆われていた。血の色のような赤が、空一面ににじんでいた。

草原に虫も鳴かず、田んぼにも畑にも、森にも土や植物の臭いすらなく、用水路に流れる水の音も聞こえなかった。

上空にも風がないのか、雲の動きも見ることが出来なかった。

音も無く、ただ漫然と時間だけが過ぎて行く。
いや、その時間さえも止まっているようであった。

赤い月明かりに照らされた建物や木々の影は、赤黒く見えていた。

ねっとりとした密度で、その場の空気が淀んでいる。

そんな空間に、少しばかり場違いとも思える声が、辺りに響いた。

「こんな時は鬼が出るぞ!」どこからともなく現れた老人が、真っ赤に照らされて血に染まったように見える身体をよじりながら、ゆっくりと月を見上げる。

誰に言ったのか、誰も居ないその場所で、独り言だったのか、それを聞きつけた者が居た。

これもまた、どこからともなく現れて、老人の3メートルほど後ろに立つ若者の姿があった。

身の丈は180㎝ほどであったろうか。
痩せすぎもせず、かと言って無駄に筋肉が付いている訳でもない。トレーニングウエアに下駄履きという、一風変わった姿の青年だった。

顔には金属製とは違う、黒縁のメガネがかけられていた。

顔立ちはと言われると、どこか印象の薄い、どこにでも居そうな平凡な作りと言った所だろうか。
美男子ではないが、そう悪くも無く、ごく普通の男前である。

「鬼、ですか、出ますかね」
まるで鬼が本当に居るような言い方で、青年が尋ねた。
「出るな」
老人が答える。地の底から響くような低い声で、ゆっくりと口を開く。

ゆっくりと振り返る老人の姿が、少しずつ変わり始めた。

身体全体が大きくなり、筋肉が盛り上がり、貧相な体つきだった老人が、隆々とした体型へと変わって行く。

それにつれて、顔や頭も変化していった。

化け物じみた、おそろしげな表情になったが、古来からの、いわゆる鬼とは違った形相だった。

老人の皮膚は土気色に代わり、口が大きく裂けて、全ての歯が、まるで犬の歯のように鋭く尖って、青年を威嚇する。

青年は老人の様子を見ても、大して驚かずに、ゆっくりと構えを取った。

「オレのこの姿を見ても驚かないのか」
元老人だった鬼も、青年に対して攻撃の態勢を取る。

青年はニヤリと笑って、「来いよ」と掌で相手を誘った。

異形の鬼も心なしか笑ったように見えた。

「ふん」鬼の鼻息。

鬼の右手がいきなり伸びて、3メートルの距離をとっていても、彼の間合いだったことを知る。

鬼の太く大きく伸びた腕が、青年の側頭部をとらえたかに見えた。

青年はさすがに攻撃を真正面から受けることはせずに、身体を少し後方に下げて、相手の手の甲を軽く叩いて攻撃をいなした。

軽く叩いたように見えたのだが、鬼は大きくバランスを崩して、前方に蹌踉ける。

「貴様、何をした」
お決まりの文句に、青年はまたしても顔を少しゆがめて笑うだけだった。

怒りにまかせた鬼の一撃が、さらに青年を襲う。
青年は今度は襲ってきた左腕を両腕で押さえつつも、繰り出された拳の方向へ、斜めに少し下がりながら躱した。

その時に、青年は相手の腕にひねりを加えて、手首を折りにかかる。

嫌な音がして、鬼の手首がおかしな方向へ曲がった。

だが、鬼の方も顔一つゆがめない。
左腕を引っ込めて、一振りしただけで、折れた部分が治ってしまった。

「なめるな人間」
少しだけ感情のこもった声に、青年はさらにニヤリと笑う。

不敵な笑み、と言うよりも、こちらの方も何か戦いを楽しんでいるような、そんな不穏な雰囲気を漂わせた狂気に満ちた、寒気を感じる笑みだった。

青年の方からの攻撃が開始された。

鬼の方から見ると、青年の身体が沈んだように見えたに違いない。
青年は前方に体重を移動させると、一気に鬼の胸部を両手の平で掌打した。

青年の踏み込みも体重の乗せ方も完璧だった。
表面の肉が歪んだように見えた。
そして鬼の肋骨が折れた。
内臓まで打撃が届いたのだろう、鬼は吐血して、苦しげに身を折った。
青年の攻撃はこれで終わりではなかった。
鬼の身体が打撃で吹き飛ぶのに合わせて、更に強い踏み込みと打撃を繰り返す。
鬼の身体が宙に浮いた状態で、打撃を繰り返しながら、10メートルも移動した。
青年は細身に見合わずに、たぐいまれな筋力を身に付けているのだろうか。
最後の攻撃が決まった瞬間に、青年は白い歯を見せて、狂気の笑みをさらに酷くした。

鬼の背中が裂けて、内臓が千切れて飛び出した。
鬼も赤い血をしていることがわかった。
血しぶきを上げて、鬼が崩れ落ちる。
鬼は何か喋っているように見えたが、青年にもその声を聴き取ることが出来なかった。
何と言ったのか、狂気の青年はそんなことは気にも留めずに、鬼の身体から離れた。

青年の身体には、返り血すら付いていなかった。

ゆっくりと、鬼はくずおれた。

青年はそれを見てやっとの構えを解く。
鬼の身体は地面の倒れる前に、影が薄くなり始めて、スッと消えてしまった。
これで本当に鬼が滅せられたのかどうかは、青年にも実はよくわからなかった。
鬼を倒した青年にさえも、その本当の姿、本質はわかって今かった。

戦って、生きている時は物質的であったが、こうして倒してしまえば、まるでなかったもののように消えてしまうのだ。
本当の姿を想像することすらわからない状態であった。

ゆっくりと、鬼は姿を消してしまった。
まるで溶けて無くなるようにスーッと空間に消えていった。

青年はその姿を確認し、さらに大きく顔をゆがめて笑った。
そうして少し落ち着いてから、緊張の抜けた様子になった。
大きく息をして、形相も自然なものへと戻っていた。
狂気の姿はなかった。

赤い光が和らいで、辺りの空気の色が、少しだけ正常に戻った気がする。
青年の着ている服の色や、形もはっきりと輪郭を見せて、紺色にストライプのトレーニングウエアであることがわかった。
赤い月の光が、少しだけ薄くなって、妖気のようなものがほんの少し軽くなった気がした。

少しこの青年について行ってみよう。
鬼を倒した後に青年は少しだけ、消えて行く鬼に手を合わせて祈った。

成仏でも祈ったのか、何を思っての祈りかは、青年にしかわからなかった。それはこの青年が鬼を倒した時に行う習慣のようなものなのかもしれない。
それから姿勢を正して、ゆっくりと歩き始めた。
どこへ行こうというのだろうか?
青年が歩を進める度に、まわりを覆っていた空気が、瘴気のような重苦しい空気が、少しづつ晴れるように軽くなっていった。

ここは住宅街の中にある、空き地というか小さな公園と言った所だろうか。
住宅街も、時間が経ち、青年が歩みを進めていく度に、ぼんやりとしていた景色のピントが合っていくように見える。
辺りは現実味と実感を取り戻していった。
だが、赤い光はまだまだ一向に消えない。
少しだけ薄くなったとはいえ、不気味な赤い光はまだまだ世界を包んでいた。

青年が歩みを進めると、いつのまのか人通りの多い大きな通りに突き当たった。
視界に入るだけで20人はいるだろうか?子供もいる。
「こんなところで騒ぎは良くないな」
青年は初めて言葉を発した。

騒ぎという事は、まだあの鬼のような怪物が出てくるとでも言うのだろうか、あのようなものがまだ他に居るとでも言うのだろうか。

青年は立ち止まって、ゆっくりと視線を動かす。

何かを探しているようである。
やはりあのような鬼がまだ近くに居るのだろう。
ただ、不思議なことに、この青年からは殺気のような張り詰めた雰囲気は感じられなかった。

すぐにアテが出来たようで、青年は方向を定めると、またゆっくりと歩き始めた。

今度は歩道を右方向に進んで行く。

銀杏の木の街路樹が点々と植えられたレンガ模様の歩道を進んで行くと、大きな廃ビルが左手に見えてきた。

不意に人並みが切れる瞬間があった。
青年は瞬間を見計らってか、しゃがみ込むと、徐に路面に掌を翳す動作をした。

何か納得したようにため息をつき、「今日はこれまでだな」と言ってから、また立ち上がると、ポケットから通信端末を取り出して、近くの駅を探し出し、其処へ向かって歩き始めた。

ついでにメッセージをチェックする。

何通かのメールと、5つばかりメッセージが入っていた。
更に着信記録があった。
留守電にもメッセージが3つ入っていた。
青年は留守電のメッセージは後で確認することにした。

街路樹の脇にベンチがあったので、そこに座ると、メールのチェックをはじめた。

メールはどれも仕事のことばかりで、つまらない内容であった。

青年の仕事は、表向きはライター、で、本業はと言うと、術師と呼ばれる異能集団の一員で先程の鬼のようなモノなどを倒して食い扶持を稼いでいるのだ。

鬼に対しての戦い方や、どうやって倒すのかは術者の個人個人で個性が出るところではある。
青年は格闘術を得意としていた。
体術と呪術を組み合わせて戦って行くのである。

だから、この青年の技は、現代に残るスポーツ武術とは、少し違っている。
呪術や気功とか、そう言ったものを上手く駆使しながら肉体を強化して戦って行くのである。
だから、青年は翌チャクラを回すイメージトレーニングをしたりしていた。
だが、これらの術とは根本的に何かが違っているようである。
これらの術よりも、青年の繰り出す技は禍々しい物のように見受けられる。

だが青年の表情には、そう言った禍々しい雰囲気は微塵も感じ取ることが出来なかった。
恐ろしく厳しい修行の成果か、若しくは青年の持つ気質の様なモノなのかは分からなかった。
恐らくはその二つであると想像できる。

一通のメールに視線が止まった。
件名は、例の件、とだけある。
彼の注意を引いたのは、この件名ではなかった。
差出人。
夜羽 沙都子と記されていたのだ。
沙都子は彼の公私共にするパートナーだった。
要は仕事上のパートナー出あり、恋人とでもいう関係だった。

メールの本文を開いてみる。

神憑 魔太郎君、と、出だしが記されていた。
神憑(かみつき) は、青年の名字で、魔太郎は幼少時代の渾名(あだな)である。
青年の本名は世機(せき)と言うのだが、彼の幼少時代のあだ名を知っているということは、夜羽沙都子(よるは さとこ)と、神憑世機(かみつき せき)は相当に長いつきあいだということになる。
腐れ縁?

小林陽太郎さんの家だけれど、矢っ張り怪しいみたい。
妖気とか、そう言った気配じゃないけれど、何かが隠れている気がするんだよね。
鬼?
違うな、もっと違う狡猾な知性のある何かよ。
たぶん同業者が仕掛けているんじゃないかな。
もう少し探って見るけれど。

それから、槇(まき)のことだけれど、ありがとう。
彼女も喜んでいたよ。

これが全文である。
小林陽太郎さんと言うのは、神憑達のもう一人のクライアントである。
そして槇と言うのは、夜羽沙都子の妹であると同時に二人の仕事仲間で、夜羽槇の事であった。
槇も沙都子も、まあ、美人という程ではないにしても、それなりの容姿だと神憑は思っていた。
ただ、二人ともに頬から首筋にかけて、大きくて赤い痣があった。
沙都子が右頬で、槇が左側である。
手術で取ってしまえばいいのだろうけれど、この大きな痣が、二人の霊力に大きく関係しているのである。
そう言った類の、マークのような痣であった。
二人ともに体術で鍛えて居るので、スタイルもいいし、それなりに身長だってあるから、顔に痣さえ無ければ、ファッション雑誌の読者モデルくらいには・・・無理かな?
神憑はそんな事を考えながらも、スマートフォンをポケットに仕舞って、帰路を急いだ。

神憑達の裏の仕事は、最近は特に忙しくなっていた。
本業をやっている暇もないくらいに、1日1件は仕事があった。
神憑は本業は技術系のライターをやっていた。
夜羽沙都子はその助手として、いつも神憑の傍に居るものだから、別行動の出来る副業の方を好む傾向にある。

槇の方はネットで手芸教室等を開いて生計をたてていた。

神憑は自分の事務所兼自宅に帰ってきた。
事務所に入ると、そこには夜羽沙都子も来ていた。

神憑(かみつき)が部屋に入ると、夜羽沙都子は小型の冷蔵庫から缶入りのお酒を出して、勝手に飲んでいた。

神憑はなかばあきれ顔で、沙都子に言った。
「まだ5時だぞ?」
酒を飲むには早すぎる時間だとでも言いたいのだろう。
沙都子も十分承知していて、わざと美味しそうに喉を鳴らした。
この女!神憑は微笑した。
こうした掛け合いが、彼の心を救ってくれるのだ。
彼らが術師として生きる人生を選択しなければならなかったのは、人に語るには重く、辛いものであった。

沙都子と神憑はともに同じ歳の同じ月、同じ曜日で、同じ時間帯に生まれたと言う関係性があるのだが、違いは性別と、生まれ落ちた土地が違っていた。

沙都子は、新潟県湯沢という、雪深い土地で生まれた。
神憑も新潟県だったが、長岡というところで生を受けた。
二人の共通点は他にもあり、母親の実家が新潟県の南魚沼市にある八海山の麓に近い村の出身らしいと言う事だった。

だったというのはどう言う事かというと、二人ともに一歳の時に両親を事故で亡くしていたのだ。

生まれた土地柄や血筋だけで呪術が出来るようになるわけではない。
だが、二人の母の出生に関わった人物が呪術師だったこともあり、二人の才能を見いだして、引き取り、育て上げたのである。

その人物は二人に自分の事を親と呼ばせる事はせずに、先生と呼ばせていたので、二人は今もその人物のことを、先生と呼んでいる。

その人物、先生、は、別に二人に対して冷たかったわけでもない。
時には可愛がりもしたし、甘えさせてくれることもあった。
なぜ先生は自分の事を親と呼ばせなかったのか。
それは、修行に甘えが出てはいけないという配慮もあった。
それに、先生自身の心情もあった。

先生は女性である。
家庭を持っていた事もあった。
だが、自分が留守の間に凶悪な殺人者に、3人の子供を殺されて、それ以来夫とは不仲になって離婚。
そんな人生を歩んでいたので、子供に対しては特別な感情があったのだろう。
あえて愛情を注ぎすぎることのないように、距離を置くために、自分を先生と呼ばせた。

さらに先生は本名を二人に教えてくれなかった。
術師の世界は複雑で、通り名やペンネームみたいな偽名で呼ばれるのが普通だった。
先生の術士名は稜華(りょうか)である。意味は教えてもらえなかったが、自分で名乗ったのだという事だけは教えてくれた。
多分亡くなった子供の名前にでも由来するのではないかと、沙都子と世機は密かに思っていた。

先生の修行は、二人にとっては辛いことも多かったが、それ以上に楽しいことも多かった。

先ず先生は、理論は後回しにして、実践テクニックをよく教えてくれた。

子供相手なので、その方が二人の興味を引くと思ったのだろう。
更に、呪術ではあるが、呪い殺したりなど、暗いイメージのつきまとう術は教えないようにしていた。
人を幸せにする呪法、人のために役に立つ呪法を重点的に教えてくれた。
それと、実戦での体力をつけて、身を守る術を身に付けるという意味もあって、体術を、格闘術を教えてくれた。

この格闘術は、世機にとっては天賦の才を発揮できるまたとないものだった。
沙都子も弱かったわけではないが、男女の体力的な差だけではなく、攻撃や受けに対する発想力で、世機には今一歩及ばなかった。

反対に、術は沙都子の方が筋が良かった。
特に札を使った技が得意であった。

世機は術に関しては、体術を織り交ぜた技を鍛えた。
その方が性格にも合っていたし、自分自身その方が向いているという自覚もあった。

高度な術は沙都子が全て覚えていった。
世機も使えなのではなく、いつも沙都子よりも技の発動が遅れてしまい、いらだたしくも沙都子をうらやむことになる。

二人の修業時代の関係はこんな感じだった。

今は亡き先生を思い出しながら、神憑世機は中をぼんやりと見詰めた。

神憑世機が回顧に浸っていると、缶酎ハイを半分ほど体内に取り込んだ沙都子が、テーブルの上に缶を置いて、手近にあった椅子を引いて座った。

世機は沙都子の襟元からのぞく、まだ張りのある胸元にチラリと視線を走らせたが、すぐに離した。
今はそんな時ではなかった。
沙都子はそれに気が付いて、意地の悪い微笑を浮かべた。

沙都子は女性にしては高身長の175㎝はあったが、世機は更にその上の巨漢である。
並んで歩くにはちょうど良い二人である。
二人ともに、モデルをやれるほどにスマートではなかったが、かと言って太りすぎと言うほどでは無かった。

沙都子は和装に近いデザインの、変わった衣服を愛用していた。
そう言った服だから、余計に胸元が強調されているのだ。

沙都子曰く、動きやすいのだとか。

術者は人に会う時でも、奇抜な格好を好む傾向にある。

大きくて長い数珠を首に提げているなど、ごく当たり前の姿だった。

二人の先生はスタイルを気にする女性であったために、彼らはそう言ったいかにもと言う格好だけはしなかったが、常人とは変わったスタイルであることは見てわかる。

沙都子は依頼主の小林氏の現状と、自分の調査したかぎりのことを神憑世機に話し始めた。

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