忘備録、、、④
3月14日以降は怒涛の日々だった。
所持金も少なく、貯金も少ないシングルマザーの私が親子3人で暮らしていくにはどうすればいいか、、、。
慣れない都会で右往左往する毎日。
周囲の人が普通に生活している事への違和感を感じ続けながら、本当にここでやっていけるのか?と自問自答する毎日。
時間はどんどん経過していくも、何も解決出来ないまま姉の家にいる事で精神的に追い込まれ始める。
それに同調するかの様に、息子が情緒不安定になり始める。
「じぃじとばばちゃんはどうしたの?」
「おうち、まだ帰らないの?」
など、5才の娘の中にも疑問が出始めてくる。
そんな中、父から電話で
「避難所に置いてきた車を取りに行きたい。」
と連絡がきた。
4月に入り、久しぶりに両親と会う。
子供たちは大喜び。
もちろん、両親も喜んだ。
両親は、母の兄のツテでアパートを借りて住んでいた。
犬たちは母の姉の家で預かってもらっていた。
会いに行くと、オバさんちの広い庭で2匹は元気だった。
※この記事を書いた2023年3月12日の午後、犬たちを引き受けてくれた、私たちも何かとお世話になったオバさんが亡くなったと母から電話が来た。
90過ぎて大往生ではあったが、施設入所していた為とコロナ禍で、母とは何年も会う事が出来ずに逝ってしまった。
2人とも、それだけが心残りだったと思う。
オバさんのご冥福を、心よりお祈りいたします。
翌日、車を取りに避難所へ。
13日以降、福島に来るのは初。
父と2人、考えていた事は一致していた。
大熊町の自宅へ行った。
町境に警備員が立っていた。
「自己責任で」
そう言われて通された。
家に帰るのに『自己責任』ってなんだよとか言いながら町に入る。
トンネルが真っ暗だ。
当たり前だ。
電気は止まっている。
土砂崩れで今にも道が塞がれそうになっている場所もあった。
家までの道のり、父と会話はなかった。
家に着いた。
私は電話して母に頼まれた物の持ち出しと、自分たちの必要な物を持ち出して車に積める。
父は家の中と周辺を見て歩いていた。
家の後ろの用水路が止まっていた。
水が止まったせいか、池のコイたちは数匹死んでいた。
飼っていたカモと鶏は、逃げたのか食べられたのか、1羽も姿がなかった。
腐敗臭もした。
自分の家なのに、静かすぎてなんだか嫌な感じがした。
なので、早々に立ち去ってしまった。
この後、立ち入り規制が入り、許可なく自由に立ち入る事は出来なくなってしまう。
『自己責任』で入れなくなった。
こんな事なら、もっと色々確認したり持ち出ししておけばよかったと後悔したのは言うまでもない、、、。
帰りに町役場機能が置いてあった避難所に立ち寄った。
諸々の手続きをしていると、同僚に会った。
顔馴染みにも会えた。
知り合いの安否も一部確認出来た。
帰りは車2台。
なので1人で車に乗っていた。
前を走る父は飛ばして行く。
早く家族の元に戻りたいのだろう。
しかし、飛ばす。
(自分の軽自動車で来ていたら大変だったかも、、、。)
そう思いながら、前を行く父運転の軽貨物車を普通車で必死に追いかけていた、、。
その夜、母に
「こっちに来るならここのアパートに部屋を借りてくれるとおじさんが言ってくれている。」
と言われる。
母の実家は茨城県。
父は、ここに留まることに悩んでいる様子だった。
私も即答は出来なかった。
大熊の家から持ってきた物は、両親に預かってもらった。
姉に見つかったらまた捨てられてしまうと思ったから。
思い出の品や大事な物。
捨てるために持ち出した訳じゃない。
翌日には帰る事に嫌がる子供たち。
そうだよなぁ。
ずーっと一緒に暮らして来たんだからそうだよな、、、。
それでも一度姉宅に戻り、それから身の振り方を考えなくては世話になってるのに失礼だよなぁ、、、。
色んな思いが頭の中でごちゃごちゃとうるさかった。
2DKのアパートで5人で寝た。
この後もう一回、ここには来る事になる。
その話は次回。
今回はここまで。
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