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忘備録、、、⑥

旅館で過呼吸を起こしてから、しばらくは順調にこなしていた。

最悪の事態が訪れたのは6月。
職場で昼に配達から戻り、事務所でご飯を食べようとしたら襲ってきた。

過呼吸、、、。

どうにも治らない。
そもそも治し方を知らない。
必死になればなるほど呼吸が苦しくなり、意識が遠のいていく。

小1時間経過しても治らず、救急車を呼ばれる事に。
店長が母に連絡する。
母は全く土地勘がない。

会津坂下町の病院では迎えに行けないとなり、結局若松市内の病院まで搬送された。
長い道中、救急隊の処置のおかげで車内でだいぶ落ち着いてしまった。

病院に着いた頃には帰れるくらいには復帰していた。

しかし、職場復帰が難しかった。

ドライバーという職業柄、発作を起こす人間が戻るにはハードルが高かった。

とりあえず、受診して診断書を取ってきてと言われたのも困った。
どこを受診すれば良いのかが分からなかったからだ。

運ばれた病院に電話して聞いてみると、答えは
『心療内科』
だった。

「嘘でしょ?私が?なんの冗談?」

それでも診断書がなければ先に進めない。
調べて個人の心療内科を見つけ、受診する。

診断は
『パニック障害・過呼吸症候群』
と出た。

・・・・ドライバーには戻れなくなった、、、。
「受付けで働く?」
という提案ももらったが、時給がガクンと下がる。
今以上に稼げなくなったら死活問題。

とりあえず、しばらく休養する様に言われてしまい、休んだ。

その間、旅館から仮設住宅に移動になる。
長屋づくりの仮設住宅は、行政区ごとに入居した。

そこで、知り合いから仕事に誘われる。

今より稼げて職場も近い。
臨時職員だけど安定企業だ。

決めた。

クロネコさんを退社して、そこに入社した。

2011年の8月、『生活支援相談員』という新たな仕事に就いた。
これが私の性分に割と合っている仕事だった。

避難者宅を周り、相談事を聞いて歩く『御用聞き』みたいな仕事だった。
聞いた相談内容によって関係各所の窓口に。
自分たちで対応出来るのがあれば対応する。
そんな感じで働いていた。

過呼吸は月一程度で襲ってきたが、同僚たちには知らせていたのと、通院して薬を処方してもらっていたので都度乗り切っていた。
何より、同僚の半分以上が『同郷』であるという事で、私が過呼吸を起こしても嫌な顔をされずに済んでいた。


旅館に移ってすぐからずーっと働いている私に
「なんでそこまで働くの?」
と聞いてくるヤカラもいた。
はじめは『一家の働き手が私しかいなくなった事』への焦りだ。
家族を守るため、パニック障害という診断が出てその後も過呼吸が治らなくても、
『仕事をしない』
という選択肢は浮かばなかった。

最初の賠償金が入った時も
「これだけの金額じゃ、今後何かあったらどうにもならない。」
そう思って働き続け続けた。

働く事が不安から気を紛らわす方法でもあったようにも思う。

それでも、過呼吸は一向に治らず通院は続いた。

仕事は楽しいと思っていた。
自分の非力さに落ち込むことも多かったが、訪問先で
「待ってたよ!」
と言ってもらえるのは嬉しかった。
もちろん、
「何しに来た!」
と追い返されることもよくあったが、根気よく通っている内に打ち解けてくれるケースもあった。
一向に打ち解けてもらえないケースも多々。
居留守も多々。
「こんにちは〜。」
と言っただけで怒鳴り散らされて追い返されるケースもあった。
玄関チャイムを押しただけで怒られた事もあった。

色々あるたびに
「みんな大変だからね。」
と言ってた。
「自分だって大変だから、みんな大変だよね。」
呪文のようによく言っていた。

1年半が過ぎる頃、子供たちが通う学校から転校していく児童が増えていた。
「みんないなくなったら、1人になっちゃうよ、、、。」
息子が嘆いていた。
仲の良い子が次々といなくなっていたからだ。
それぞれ家庭の事情で仕方がない。
しかし、息子が『最後の1人』になるのは想像するだけで恐ろしい。
今の仕事は臨時だが、よほどの事がなければクビになる心配はなかった。
仮設住宅からも人が減り始めてきた。
どうする?
会津若松でしばらく生活すなら、思い切って中古住宅でも購入する?
でも、そんなお金は持っていない、、、。
両親に相談すると
「会津若松に家を買う気はない。」
と言われる。
どうする?
ネット検索すると、被災者用の特別ローンを見つけた。
これ使って買う?
引っ越して、子供たちを会津若松の学校に通わせる?
中古物件も検索すると買えそうな値段がいくつか見つかった。
どうする?
どうする!

困り果てていたせいか、この時期は過呼吸の発作の頻度が半端なかった気がする。

その頃、今のダンナさんが何かと手助けしてくれていた。
ダンナさんとは震災の数ヶ月後に、数年ぶりに再会した。
元上司で、当時は会社で1番信頼できる人だった。
退社後も何かと連絡して相談に乗ってもらっていたが、離婚して慌ただしくなってからは年に一回、状況報告のメールを送る程度になっていた。

再会後、ダンナも✖️イチになっていた事を知った。
私が離婚した事は、年イチのメールで報告していた。
ダンナさんの仕事柄頻繁に会う事はなかったが、時間が出来ると何かと気に掛けて来てくれるようになった。

なので、悩みを相談した。
「出来る限り手助けするから、頑張ってみたら?」
そう言われて物件の内覧に行った。
価格も程度も条件の合う物件が見つかる。
ローンも適用可だった。
思い切って購入した。
両親も一緒に住んでほしかったが、
「ここ(仮設)から出る気はない。」
と言われてしまった。
でもまぁ、同じ市内だからいつでも来れるし、、、。
そう思うようにして説得は諦めた。

こうして震災から2年後の2013年の春、会津若松市内に家を購入して引っ越し、新学年から子供たちも地元の学校に移った。
「住宅ローン返済と家族を養うため、さらに頑張らねば!」
より一層、全てに全力で取り組んだ。

子供たちは新しい学校にすぐに打ち解けた。
東京の時とは明らかに違った。
同じ県内だからなのか、子供たちが成長していたせいなのか、驚くほど楽しく学校に通っていた。
仮設住宅時代から始めた野球はそのまま継続していたので、以前からの友達にも会えていた事も良かったのだろうか。
新生活は好調な走り出しだった。

・・・だったのだ、、、。
10月のあの日が来るまでは、全てにおいて順調だったのだ、、、。


あの日以降は、かなり暗くて重い話が延々と続くため書くか悩む。
自分も思い出すのがツラい。
一部の記憶は曖昧だし、、、。
その瞬間の前まで、書こうか、、、。

『あの日』とは、私がひき逃げされた日だ。

当日のその瞬間まで、大変だけど楽しく生活していた。

翌日に祖父の13回忌を行うので、色々準備もしていた。
夜に野球チームの懇親会が入っていた。
母はとある病気で手術になり、その日退院して来たばかりだった。
故に、我が家に両親がいた。
子供たちを父に頼み、夕食を作って出掛けた。
「片付けは帰って来てするから置いといて。」
そう言って家を出た。
懇親会の場所は家から歩いて行ける距離だった。
小雨模様だったので傘を持った。
翌日を考え、ひと足先に懇親会を抜けた。
21時半頃だった。
相変わらず小雨模様だったが、タクシーで帰るほどの雨ではなかったので歩いた。
懇親会だったので、ビールを少し飲んでいたが酔ってはいなかった。
早歩きで家路を急いだ。
帰って片付けして、母の体調を確認して明日の準備を再確認して子供たちは起きてる時間だからお風呂入ってたら寝るように言って、、、。
などなど、色々考えながら歩いていた。
歩道から線路の高架下をくぐり、家に向かう1本道に・・・・・・・・・・

怖いくらい、その瞬間の前までの記憶は残っている。
今でも鮮明に残っている。
しかし、

・・・・その瞬間の記憶は、残っていない・・・・。

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