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暗い菜の花畑にて

帰りに自転車を漕いでいたら、夜なのに日向くさい匂いがした。
見下ろすと川べりにいっぱい菜の花が咲いていて、そのにおいがここまで漂ってきているのだった。
目をつむっても道がわかりそうなくらい、濃密な匂いだった。
風がふくと、ざあああっと黄色いかたまりが揺れる。
毎年こんなにたくさん咲いていただろうかと疑問に思うほど、菜の花はずっと向こうの川岸まで続いていた。
ペダルを漕ぐのがなんだか億劫になってしまったので、私は自転車から降りて手で押しながら、ゆっくり前に歩いていった。

なんとなく菜の花のほうを眺めていたら、遠くで小さな光がちらちら動いているのが目に入った。
夜の灯台みたいに、くるくる角度を変えながら辺りを照らしている。
あそこに誰かいるのだろうか。
なにか探しものでもしているのかもしれない。
しばらくのあいだ、光は円を描くようにあちらこちらを彷徨っていたけれど、途中ですっと消えて、それからはなにも見えなくなった。
元通り、暗がりに菜の花の黄色だけがぼんやり浮かんでいた。

そのまま道を進んでいたら、突然土手を駆け上がってきた人がいたので、びっくりした。

現れたのは小柄なおばあさんで、長いスカートのすそを手でぱんぱん払っている。
おばあさんは顔を上げると、驚いて固まってしまっている私に向かってニッコリして
「ああ、やっと見つかりましたよ」
と言った。

それで私は、さっきの光の正体はこの人だったのかと思ったのだけど、まるで私が遠くから見ていたのをわかっていたような口ぶりだったので、なんだかぎくりとした。
でもおばあさんの勢いに飲まれてしまい、私は了承の意味を込めて、なんとなく頷いていた。

おばあさんは手に木の箱を持っている。
それは多分曲げわっぱと呼ばれる、木で出来た丸いお弁当箱で、実家で母が似たものを使っていたから、すぐにピンと来た。
たまに私も貸してもらい、炊いたごはんに卵焼きや青菜、佃煮などのおかずをぎゅうぎゅう詰めたのを母が持たせてくれて、お昼時に膝のうえでハンカチ包みをひろげれば、なんとも嬉しいご馳走になった。

私が懐かしくそんなことを思い返していたら
「連れて帰って、家で大事に育てます」
おばあさんは、そう呟いた。

私はさっぱり訳がわからなかった。
するとおばあさんが胸に抱くようにして持っていた曲げわっぱの内側から、かさり、という奇妙な音がした。
まるで、畳まれていた紙がひらいた時みたいな、不思議な音だった。

箱の中には、いったい何が入っているんだろう。
よくわからないけれど、あの中身は私が知っているお弁当じゃなくて、全く別の何かなのだということだけはわかった。

おばあさんは私とは違う方向に向かって、静かに歩き出した。
私も家に向かって帰ることにした。
自転車にまたがり、ペダルを漕いで、いつもの道を走っていく。
さっき箱から聞こえた「かさり」という音が、耳に残ってしまい、なかなか離れなかった。


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