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娘だけのかおノート~遊びをノルマにしない~

無印良品の「かおノート」って、ご存じだろうか。

tupera tuperaさんのデザインで、「顔」、それも女の子からテニスボールまでありとあらゆる顔のページに、目、鼻、口などのこれまたありとあらゆるシールを、自分でチョイスして自分だけの顔を作る(もちろん描いてもいい)という、いたってシンプルかつアートな、本。
(某ヒャッキンにも類似商品はあるけど、tupera tuperaさんが本家!)

我が家のそれは、もう2年半くらい前にじぃじから頂いたもので、作れるようになったらと、大事にとっておいていたものだ。

2歳頃から少しづつ貼り始め、今娘は3歳になり、顔作りの適齢期だ(そんなものあるのか)。
1パーツごとにシールを貼っては母を呼びよせ、「みてみて」と言って一緒に遊ぼうと誘うのだが……。
それが……。

例えば、まず肉まんの顔を選ぶ。そしてどのパーツから貼るか考えて、目を貼る。

母を呼んで自慢の混じった解説をする。

肉まんはそのまま……ページをめくり、次の顔を探す。

となると、ついつい母は、
「肉まんの鼻はどれにするー?」
なんて、肉まんの顔の完成を促してしまっていた。
絶対にやらなくてはとまで思ってないにもかかわらず、
目が貼れたら、鼻、口、飾り?と続く、一連の流れを、さくさくやらせようとしている自分に気づき、はっとなった……。

いかん、これは娘のものだ。

ぬり絵も、絵探しも、めいろも。最後までやるかどうかは娘次第。
途中でやめたっていい。
シール貼りも。肉まんに鼻がないといけないルールなんてないのだ。だいたい普通は鼻どころか目すらないよ、肉まん。

そう思い直して、じっくり娘に任せることにした。

すると、かおノート、何ヵ月たっても終わらないし、時々本棚から引っ張り出してきては広げて、それがなんとも楽しそうなのである。
毎回新鮮。
顔パーツを少しづつ足していく娘に、ああ、そういう遊び方があるのだと、逆に教えられた気がした。

もし、完成をノルマにしてしまったら、楽しくないし、すぐに終わってしまう。

顔の出来不出来を評価することもなく、ただただ目を貼っては面白がり、口を貼ってはこわいといい、鼻を貼っては笑う、出来上がったのもあるし、たくさんつけたのもあるし、途中のもあるし、ないのが完成のもある。
これは、そうやって顔の変化を楽しむおもちゃなのか!

ついつい大人は完成を目指してしまうし、最終的な出来を評価してしまう。

それをこどもに、押し付けていないか。


さりげなく、自分でも気づかぬうちに、遊びをノルマにしてないか。

以前、幼稚園のプレに行ったとき、娘がしょんぼりとこんなことを言っていた。
「今日はあんまり遊ばなかった…」
その日だって、時間はいつもと同じ一時間半。お月見用のうちわ作り(シール貼り)、絵本よんでもらったり、運動会用に踊ったり、園内散歩したり、手遊びだってやったと聞いた。
が、娘はもっと『遊びたかった』のだった。
遊びってなんだろう。保育者は「製作遊び」「手遊び」「劇遊び」など、よく「遊び」を名前につける。
でも、そこに大人のノルマがあったり、こどもが受け身だったとき、こどもにとってそれは『遊び』ではないのだ。
改めて思った。
『あそび』ってなんだろう。
大人の名付けた遊びは、こどもにとってはどんな意味があるのだろう。
出来た喜び、達成感、そういう言葉を聞くけれど、出来上がった製作は嬉しいけど。
やらされたことはこどもにとって、その時間自由に遊ぶよりもどれくらい大事な時間になったんだろう。

そんなことを思っていたのに、こどもが自ら始めたあそびでも、口を出すことによって、完成させようとしてなかったか。

それは、ノルマになっていないか。やらせようとしてないか。

時々、自分を振り返らなければいけないな、と思った出来事だった。

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