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興味と言う名の癖と救済

先日、ある方からメッセージを頂きました。
そのメッセージの内容が頭から離れず、気になっているのでここで吐き出してみます。
あ、悪口とか愚痴とか、そんなドロドロした話じゃないですよ。
タイトルの通り、「救済」のお話です。
いわゆる自分を振り返る良いヒント貰ったと言う話です。

その方はヌーソロジーを通して知り合いになった人…と言って良いのかな。
実際にお会いする関係の人では無く、SNS上で関わってくださる方です。

そもそもの話なのですが、私はヌーソロジーの「カタチ」そのものに興味があります。
幾何学的な隙のない美しさが好きと言いますか、洗練された関係の仕組みのような、「人間の感覚を感覚化させている側の仕組み」そのものの話が好きなようです。

なので、ヌーソロジーが生活の中でどうだとか、生きている中での観察子構造がどうだとか、そう言う話は個人的な解釈で良いじゃないか?と言うスタイルで、生活の中でどう使えるのか?と言った話には興味が無いのだと思います。

とは言っても、使える時は使います。
まぁ、使うと言っても分析でしょうか。
人間ですから、言い合いのような事もありますし、夫とは些細な喧嘩みたいなものもあります。
そう言った自己他者の関係性の位置とか、相手の言い分の奥側、どうしてその言葉になるのか?、事象、物事の曖昧なグレー部分は何なのか?を構造的に分析するイメージですね。
得た知識は、このようなメタ的な考察に使っている…と偉そうに言ってますが、そんな感じです。

さて、このようなモノの考え方は、冷めている私のそもそもの性格だと思います。
ホロスコープの太陽冥王星が天秤座なので、創生と破壊が活動的な風の性質と言いますか。
なんと言いますか、生きるそのものが風の要素が多いので、基本的に分析が好きな性分なのでしょう。
伴って書く文章が軽くなるのも自覚しています。コッテリは作れない資質ですかね。

そしてこれらの性格やら性分を、「メタ的に見がち」とか「分析的な考え方しがち」だと置き換える事も出来ます。つまり、ちょっと距離のある感じです。
このような距離感が生まれたも「貴方と私は全く違う存在で、両者の間にはそれこそ次元の違いのような決定的な溝がある…」と常々感じている事から来ています。

このような基本的な性分、考え方や感じ方は派生部分で、それらが私の基本的な核になっているとずっと信じていました。
ところがです。
冒頭の方のお話を聞いて、考え方や感じ方は派生と言うより、後付けされたものだと改めて気がついたのです。

それでその方のお話の内容が気になりますよね?
何と言えば良いでしょうか。
私の興味の無い範囲の部分を知って行くには、ヌーソロジーだけでは物足りない…と言った感じの話です。
えぇと、つまりヌーソロジーのみでは、自分の過去や自分事の振り返りには向いていない…と言えば良いのかな?

言い換えるなら、私の好奇心そのもの(人間の構造を知る事への興味や、相容れない存在同士が結合するとしたら、どこになるのか?への疑問です)を知るにはヌーソロジーと相性が良い。
そして好奇心の範囲外の分野は、ヌーソロジー以外の方が探しやすい…でしょうか。

ざっくりいうと、人間として(あくまで私の人間個人としての)性格の冷たい感じ、クールさがヌーソロジーと相性が良いと言いましょうか。
(解釈、合ってるのかなぁ?ヌーソロジーの愛は人間の情愛と少し違う感じ?と言えば良いですか?)

上記の話を踏まえまして、よくよく考えてみますと、私の考え方の「自己他者関係をぶった斬る、全く切り離す」と言ったものの考え方が、後天的な癖である事に気がつきました、と言う話です。

更に考えて行きますと、後付けの理由がわかってしまいました。
これはスピ的に言う、インナーチャイルドの発見でしょうか?

どうやらそれは、私の中にある「可哀想だった私」の反発のようです。
そう言えば、上記の「可哀想だった私」とか「インナーチャイルド」に好ましいイメージが無いも「可哀想だった私」の仕業かも知れません。
子供扱いするな的な。
そうですね。まさに子供みたいですね。

因みに「可哀想」と言う単語ですが、個人的にこの言葉を使うのに抵抗があります。
聞くの見るのも、「めっちゃ嫌」です。
誰にも言われたく無いし、誰かにも言いたく無い言葉は何ですか?と聞かれたら人を呪う言葉と同系列で出てくる言葉です。

だから私は、わざわざ置き換えて「気の毒」と言います。
意識するくらい、拗らせています。
可哀想とは、不憫だと思う同情の気持ちです。

そうです。
同情されるが嫌なんですね。同情するなら金くれ…なんてドラマが昔ありましたが、これとは少し違う感じがします。
同情なんて必要無い…とでも言いましょうか。
このような反発心は、負けず嫌いだけでは済まない感じです。
「可哀想だった私」の「私の何がわかるってんだ!」と言う反発心そのもの、拒絶です。

さて。
この「可哀想だった私」は一体何者なのか?

これはある出来事から生まれた存在です。
しかも26歳の時の出来事が後を引きずって、いつのまにか育った存在ですので、そこからずっと一緒に暮らしてますからね。
もはや完全に私の一部で側面でしょう。

彼女は私の恨み節から生まれた存在です。
助けてくれなかった。私を分かってくれなかった。
酷い裏切りだ。
傷ついた末から生まれた、周囲への拒絶心です。

…。
なんて気の毒で、可哀想な存在でしょうかね。

彼女はもはや私の一部になっているし、この時の感情や記憶と癒着したままなので、彼女が同居する以上、あの時の負の感覚は消える事も無いでしょう。

しかもこの哀れな彼女も、私のメタ的考え方の癖で、苦い経験は、誰かに寄り添うために使えるだとか、誰かの慰めとして真実の言葉として使える…と言いくるめられて、どこかで折り合いをつけて端っこに同居させていましたから、全く惨めな存在になってしまいました。

そしてこの流れが「可哀想だった私」にとって、全く寄り添っていない事実であり、惨めな存在へ追いやった事実にも気がつきました。

こうして彼女を思い出しながら吐き出して書いていますと、書き始めた冒頭の頃よりも少し気持ちに変化を感じています。
同情の裏に感じていたネガティブなイメージが少し薄れて来たような感じもあります。

「全部は分からないけど、少しは分かると思う」

それは今までの「分かってあげられなくて、ごめんね」と言われて続けて来た彼女の彼女自身へ投げて来た拒絶の言葉から、距離を縮めた言葉に変わりつつある、彼女なりの変化の言葉です。

変化、変容。
それは自己の振り返りの過程。

私はそれらは他者の像の中で見出すものだと信じていました。
けれど救済は他者の言葉であっても良いのかも知れません。
ヌーソロジーで言えば私の見る場所にいる、「君」から「君の君」への言葉なのでしょうか?

その言葉の正体は一体何なのか?
相互関係は何なのか?
空間構造の中の何処に救済者の存在があるのか?
ここに来ても私の興味はここに尽きるようです。
きっと「可哀想な彼女」も呆れている事でしょう。

さて、救済となった言葉やきっかけを空間構造の中にあるカタチに見出せば、他者の言葉の正体が見えて来そうな気がします。
もしかすると他者の言葉は、自己の内面の内面としての言葉なのかも知れませんね。

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