過去の経験と未来の価値

浪人生の時は人とのつながりを作る余裕がなかったので、予備校講師の言葉ばかりが心の隙間を埋め、今でも大切な言葉として私の辞書に収録されている。そして、当時最も陳腐だと感じた言葉が真実であることを今身をもって体験している。

「今やっている時はその意味が分からなくても、これから生きていく中で分かるってことはいくらでもあります。30代40代になったら分かります。」

当時は、「30代超えたら体が急に変わった、あなたも30歳になったら分かるよ!」のように、手垢のついた忠告だと思った。語録を作るほど好きな先生の言葉でなければ、聞き流していたに違いない。

しかし、20代の響きも新鮮さを失った今、10代の苦悩に意味を見出すことがある。私も多くの人と同じように、多感で悩みがちな思春期を送った。なぜ私がこんな目にあわなければいけないのか、なぜこんなに辛いのか。暗闇を探るように悩み抜いた数年間。まだその全てに意味を見出せるわけではないけれど、少なくとも当時の自分がいて、さまざまな出会いがあってこそ今の自分がいると、辛い経験も恥ずかしい経験もすべてが自分の糧になっていると、信じることができる。

分かるようになったのは、身をもって体験したことだけではない。

教師や親に言われ反発した言葉や、当時は何とも思わなかったとか、覚えてもいなかったような言葉が、突然実感を伴って蘇ることがある。その記憶は経験によって呼び起こされ、驚くほど自然に、すっと理解できるようになる。点と点がつながる瞬間である。

残念ながら、いつ重要なきっかけとなる経験をするかはわからない。

忠告というものは、タイミングが大切だそうだ。受け入れる準備ができていないと活かしきれないのだと思う。では、タイミングのずれた忠告は意味がないのだろうか?

相手に受け入れる用意がなかったとしても、もらった言葉はどこかに残るものだ。いずれきっかけを得れば意味が見えてくる。今はまだタイミングではないとできる忠告を渋っていれば、相手は重要なきっかけを見逃してしまうかもしれない。タイミングが悪く腑に落ちなかったとしても、潜在意識の中に言葉が残っていれば経験によって掘り返すことができる。

私が今何かを経験し、それを過去の記憶と結びつけて意味づけすることでより大きな学びを生み出すことができるのは、これまで私が分かっても分からなくても何かを伝え続けてくれた周囲のおかげだ。
私はそんな、数十年後に価値を持つ言葉を発することのできる人間になりたいと思う。


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