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その日の一言をまだ引きずっている。

 それはある麻雀プロのバーゲストに行ったときのことだった。
 まだそこまでお客さんが多くない時間帯、のんびりとMリーグを見守っていたとき、客飲みに来ていた麻雀プロの方(おそらくそうなのだが確認したことはない)がふとゲストにこんな質問をした。
「実際、インターネット上の批判ってどんなもんなんですか」
 その少し前にMリーグで役の見落としがおこり、インターネット上で良くも悪くも、否良いことはなかったが大きな話題になっていた。正直なところ、私自身はそう判断できるレベルの打ち手ではないがその見落としそのものはおそらく麻雀として明解にエラーなのだと思う。だからこそ、言いやすい状況になってしまっていた。それが故の大きな反響。そんなタイミングだったので、そんな話題になったのだろう。
 そもそも、インターネット上で話題になるということ自体ある程度多くの人に見られている証拠ではある。アマチュアも巻き込んで打牌が話題になるのは、それこそ放送対局に出るような一部の有名なプロたちだけだ。多くの対局は、アマチュアの目になど入らない。誹謗中傷を受けるのは有名税だなんて最悪のロジックを振りかざす人が世の中には存在するが、その否はともかくとしてたしかに目に留まらなければ他人の言葉など発生しない。Mリーガーでこそないものの沢山の放送対局に出ているゲストにしか聞けない質問である。それを尋ねられたゲストは、概ねこんな風に答えた。
「俺は下手くそとか言われるのは麻雀プロとしてある程度言われるものだと思っているから平気。でも、今回打牌についてじゃなくて打ち手に死ねとか書いている人を見ちゃったんだよね」
 酷い。打牌批判ですらそのどうのこうのが是々非々だというのに、死ねはだれが見てもシンプルな誹謗中傷だ。処したい。そうして彼は続けた。
「もし俺が、そのとき別のことで落ち込んでいたとして、そんなときにインターネット上で自分に向けて『死ね』って書かれてるのを見たら、『は?じゃあ死んでやるよ!』ってなっちゃうかもしれない」
 とんでもない言葉が聞こえてきて耳を疑った。とっさに沸き上がった感情を処理できなくて、その瞬間生きている人類のなかで世界一変な顔をした自覚がある。あんまりに、あんまりだったから「死なないでください」と本気でいいたかったけど、その場では冗談のように流されていったから、結局何も口にできずに黙ってすごした。
 たしかに冗談めかした笑顔ではあった、バーでのちょっとした自虐芸のようなものかもしれない。本気ではない、はずだ。だけど、決して冗談一辺倒ではない、少なくとも一度はそう考えたことがなければ出てこない発言だと感じた。というか、そんな冗談を事前に用意されていてたまるか。そんな冗談をとっさにおもいつかれてたまるか!その時思った、もし100人が100の好きを伝えても、1の「死ね」で「じゃあ死んでやるよ!」と思うかもしれない。たとえ10000の好きを伝えても、たった1の。それはそれぐらいつよい言葉だ。数が少なくても明確に人を傷つける言葉なのだ。これはそう思うだけでどうせ死なないんだろとかそういう話ではない、どこでどう何が起こるのか人間の衝動性を舐めてはいけない。赤の他人について考えすぎじゃない?も愚問である、私は推しに幸せに過ごしてほしい。
 万が一にも、未来で推しを失うわけにはいかないから、その日私は絶対に人を傷つけるつよい言葉を許容しないと、そして自分自身も絶対にそんな言葉を吐いてはならないとそう決めた。
 
 残念ながら現状、打牌批判はそれを打った人間へのそれと不可分である。そもそも批判という言葉は決して悪口をいうと同義ではないのだが、結局は自分以外みな他人なので許容範囲も違えば発する意図と受け取り方はイコールにはなりえない。そんななかでも「麻雀プロなのだから批判されても気にならないくらい誇りを持て」というトッププロの矜持は本当に美しい。美しいなんていうと、いや当たり前のことだから美しいなんてものじゃないんだけどとでも脳内で言われるが、とにもかくにも見ている人間としてはそれは美しく気高い、称賛に値するものだと思う。そうやって矜持をもって戦っているそんな人の戦いをこそ沢山みたいともおもう。だがそれはあくまで個人の矜持であって、麻雀プロ全体に当てはめていいものではない。そういう矜持を持つ個人はかっこいいし、そういう矜持を持つ人が集まれば当然かっこいい集団になるだろう。だけどやはり、かっこいい人がかっこいいからといって「見ろ!!!!!!!!あの方がああ言っている!!!!!!!!!お前もかっこよくなるべきだよなァ!!!!!!!!!」というのはごく一方的な論理の押し付けでしかない。まあきっと、そもそも論としてあのかっこよすぎる言葉は全体に向けられたものではなく、彼が認めた一部のトッププロに向いているのだろうけれど。
 自分と他人の許容範囲は違う。ビジュアルのことは何を言われても平気だけど、麻雀の打牌に関しては言われたら傷つくひとだっているかもしれない。ちなみに私は学歴を揶揄られるとキレる自信がある。黙れと結論付けたいわけではない、私も決して黙ってはいないし推し雀士の対局を神視点から見ていて頼むから鳴いてくれ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!と思うことは正直ある。盲目的にはなりきれない、誰に対してもこういうところ正直あんまり好きじゃないなと思った瞬間はある。ただ、何かを言うときに他人に無遠慮であることはおそらく、違う。芸術にも、エンターテインメントにもそこには常に人間がいる。直接的な誹謗中傷は勿論、他人の言葉を振るってまた別の他人にそれを迫ることは十分に無遠慮だ。書くと気が付けることが沢山あるな、私はそこに重々気を付けなければならない。
 よく考えたら、私は直接的に死ねといわれたことがないから、その威力をまだ知らない。インターネットで「死ね」なんて書くどこの誰とも知らない、つよいことばを吐きたいだけの暴言erなんかより絶対に私の「すき」の方が気持ちが籠っているから、私のほうが思っている時間も強さも上なはずだから。どうかこっちだけを見ていてくれと思ってしまう。でも、間違えて塩を入れてしまったすき焼きはそのあとどれだけ砂糖をぶちこんだって塩辛さが拭えない。どれだけ好きを投げかけても、たった一つの否が永遠に味がするのかもしれない。だとしたら私は否を投げつけたその人を許せる気がしないけれど、どうか好きな人たちが、好きな人たちの好きな人たちが、幸せに過ごせますよう。

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