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「人が想像できることは、必ず人が実現できる」は、ジュール・ヴェルヌの言葉です

なぜヒトが「万物の霊長」を自称し、地球上に君臨できるのか、その理由を考えてみたい。

ヒトが他の生き物と異なる点は、火や道具を使いこなすこと、食料を生産すること、知性を持つことなどが頭に浮かぶ。しかしこのいずれもが、ヒトだけに与えられた特権ではないことが分かっている。

たとえば、オーストラリアに生息する一部の猛禽類は、草むらに火がついた枝を投下して火災を引き起こし、逃げ出てくる小動物を捕食する。チンパンジーやカラスも簡単な道具を使うことが知られている。
食料生産という意味ではハキリアリがいる。中南米に生息するこのアリは、刈り取ってきた葉でキノコを栽培する。彼らは農業と呼ぶにふさわしい食料生産システムを持っている。
では知性はどうだろう。ライオンは群れで狩りをし、イルカはヒトから芸を習得する。これらの行動には経験による学習が基盤にあり、さらに、情報共有やコミュニケーション能力も必要である。ヒトのそれとは複雑さに差があるものの、そこに知性が存在していることは確かだ。


では、ヒトだけが持つ能力とはなんだろうか。

私は「想像力」と考えている。


イヌを病院に連れて行こうとすると、とても嫌がる。これから自分の身に起きることを「想像」して嫌がるように見えるが、これは記憶によるものであると考えられる。予防接種などの苦痛を経験していないイヌは、病院を嫌がりはしない。しかし、ヒトは経験や記憶がなくても、周囲の状況や伝聞などから、物事の成り行きを推測することができる。
ヒトは、ほぼゼロ、わずかな手がかり、あるいは分散したものから、これまでになかった全く新しいものを作り出すことができる。他の生き物ではできない作業であり、科学技術はもとより、文学や絵画、音楽もヒトだけが為せる業だ。これらの根底には想像力が介在している。哲学や宗教のような形ない概念も、ヒトの想像力による賜物だ。
「想像力」という万能の道具を手に入れた時、ヒトは「万物の霊長」になったのではないだろうか。


「想像力」は、未来への道案内でもある。


“Tout ce qu'un homme est capable d'imaginer, d'autres hommes seront capables. (人が想像できることは、必ず人が実現できる)”は、「海底二万里」などで知られるフランスの小説家、ジュール・ヴェルヌの言葉とされる。たしかにヒトは、想像したことの多くを実現させてきた。想像に、好奇心や支配欲などの感情が加わって競争を発生し、展開や拡張を経て、ついにはイノベーションに至る。かなり乱暴な集約だが、想像の実現化とは、つまりそういうことだろう。

たとえば、ドラえもんの「どこでもドア」はVRで、「ほんやくコンニャク」はスマートフォンのアプリとして、本質機能が実現化されている。藤子不二雄氏が想像し、読者をワクワクさせた「ひみつ道具」のいくつかは、もうすでにそこにあるものになった。

わずか100年ほど前の世界には旅客機はなく(1919年運用開始)、化学繊維もなかった(1935年発明)。電話もごく一部で使われているのみで、国際電話はなかった。当然、携帯電話もPCもなく、インターネットもない。地球の裏側の出来事など知る由もなかった。日本は大正末期であり、平均寿命は現在の半分だった。現在とはまるで別世界のようだったことが分かるだろう。ヒトの想像力には世界を一変させる莫大なエネルギーが満ちている。

「すでに起こったこと」を観察すれば、それがもたらす未来が見えてくる。ドラッカーはそれを「すでに起こった未来」と名づけた。想像したことも「すでに起こったこと」であり、したがって、到来する未来の姿が自ずと見えてくる。想像もしない未来が突如として目に前に出現することはない。時間は連続する直線であり、必ず現在の延長線上にある。「何となくそうなりそうだ」と薄々気がついていても、ぼんやりとしか見通せないのは、いずれ来たる未来を現実として直視していないだけなのだ。

未来を想像することは、我々の現在の行動に直接影響し、そして来たる未来を創造していく。

現状をつぶさに観察し、未来を具体的に想像することで、これから直面するであろう課題を今すでにある事象として認識できる。したがって、それに対する準備にもいち早く着手することができる。想像とは、未来シミュレーションであるともいえる。

どのようなものであれ、未来は必ずやってくる。「こんなはずではなかった」と顔を背けることはできない。必ずやってくるのならば、我々が望む明るい未来を笑顔で迎えたい。その実現に向けて積極的に、具体的に、素早く、そして協働的に行動する。

まずは想像することから始めよう。


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